partita 〜 世界演舞

序章 現在(いま)から踏み出すための階段


 世界は一つの大陸を中心として形成されていた。その大陸の東方、中央付近に位置する迷える山、霧海山(ウーハイシャン)。その頂上に住むシャンレイのその朝は、下界に広がる雲の海から昇る太陽と対峙することから始まった。絶え間なく濃霧に覆われているこの山に彼女は恩師と二人で暮らしている。師の名はフェイシェン。伝説として語り継がれている[翔舞流(しょうぶりゅう)格闘術]の継承者であった。シャンレイはいわばその後継者なのだ。
「旅立つには早いな、シャンレイ」
 師は朝日をじっと見つめる弟子の背に声をかけた。
「心が、騒ぐのです」
 凛、と静かな水面を打つような声が響く。霧の中、ぼんやりと見える遠くの山々から目をはずす。彼女は半身だけ師の方へ向けた。動揺は見られない。
「真に[翔舞流]を継承するためには、飛竜の鱗を手にすることが必須。─── 先は長いな」
 フェイシェンはどこか愛しむように、彼女を見つめた。飛竜は風の王者たる神獣である。[風使い]とも俗に呼ばれるこの格闘術を継ぐためには、それだけの能力がなければならない。
「……必ず戻って参ります」
 シャンレイは目を伏せた。強く、固い決意を示すこの弟子と出会ったのは、もう十四年も前のことだ。師は彼女の肩をしっかりつかんだ。
「……歳月の過ぎるのは早いな。お前もこんなに大きくなってしまった」
「五つの時、一度に家族を失った私を育て、[翔舞流]を体得させてくださったこと、感謝しています。もし師匠が拾ってくださらなければ、私は存在しなかった……」
 硬い表情でそっと呟く。彼女にとってフェイシェンは、限りなく父親に近い存在だった。そして、その思いはフェイシェンにも同様だったに違いない。師はこれに首を振って答えた。
「すべてはお前の力だ」
 二人はこれ以上、言葉を必要としなかった。シャンレイは一礼すると固い決意を口にした。
「……きっと継承して見せます。待っていてください」
「─── そうだな」
 師の声を聞くと、彼女は一礼し、山を下りていく。フェイシェンは、旅立つ弟子の背を振り返ることができなかった……。

* * *

 風、其は何故嘆く。
「愛してはならないなら……」
 暗く、深きところにいるあのひとは……。
「罪であったのか、それとも……」
 答えを知ること、何人たりとも答えることのできぬ最も尊き、最も罪深き命題。
「我々はただ一つの真理さえ知らない」
 幻の如きこの現(うつつ)に何を求め、何処へ彷徨(さまよ)う……。
「未来は永久(とわ)の夢のように儚く、届かぬところへと流れゆく」
 何かを憂う吐息。何かに願ってしまう心。
「……我々にすがる場所などない」
 もはや、すべてが廻りだしているのだ。
「現を切り開いた先にあるのは……」
 新たなる今日を始めるための一段。踏み出すのは ――― 来訪者たち。



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