partita 〜 世界演舞

第一章 己が目的への回廊(1)


 あれから数ヶ月、シャンレイは西方へ向かうため広大な森を進んだ。同じ種類の木々が平坦な地面に並ぶ。その森では山の中の方向感覚が通用しなかった。
(……完全に迷ったな)
 彼女は溜息をついた。初めて踏み入れた場所。まさか迷うとは夢にも思わなかった。木漏れ日の眩しさに、思わず手をかざしてそれを遮る。人の気配はない。しばらく思案していると、背後からこちらに近づく気配を察知した。
「!?」
 勢いよく振り返ると、不思議な男が立っていた。武装しているにも関わらず、帯剣どころか武器一つ持っていない。どこか人間離れしたような風貌の男。その切れ長の瞳がまっすぐに向けられていた。
「――― 迷いなさったか?」
 男は冷静な声できいた。表情は柔和で、好意的ですらある。風がさわさわと流れていく。男の胸元にかけられたペンダントが揺れている。
「そのようだ。西へ行きたいのだが……」
 シャンレイは苦笑して、肩をひょいと持ち上げた。すると、男の表情は堅いものになった。
「……右へ行けば西方です。ここへ来るには、少しばかり早かったようですね」
 すっと西を指し、謎の言葉を呟いた。まるで独り言のような言い方だ。シャンレイは訝しい、と思いつつも礼を言う。
「すまない。助かった」
 けれども、相手はもうそこにいなかった。辺りを見回す。まるで最初からいなかったかのように、男は消えていた。
――― いずれまた……
 声だけがこだまして、木々がざわめく。青々とした樹木たちがシャンレイに何か伝えようとしている。彼女は葉のこすれる音を聞きながら、先へと歩みだした。


* * *


 ようやく辿り着いた町は、小さいながらも活気に満ちていた。野宿の連続で疲れのたまっているシャンレイは、さっそく宿を探す。少し歩くと、酒場らしきところに宿屋の看板が下がっているのを見つけた。迷わず入っていくと、前触れもなくガシャンと食器の割れる音が響いてきた。
「何だと、このアマぁ!」
 筋肉質のいかにも悪漢という顔つきの男が、ウェイトレスに怒鳴りつけていた。
「で、でも、困るんですっ。その、店内での暴力は……」
 どうやら、男は喧嘩を始めようとしていたらしい。足元に転がっている小男は恐怖のあまり、腰を抜かしているようだ。周囲の客は、すでに手を出す気はないらしい。ちらりと暴漢の方を見るが、見て見ぬ振りを決め込む。
「うるせぇんだよ!!」
 男はウェイトレスに殴りかかる。誰もが目を伏せたが、その拳が何かに当たることはなかった。
「!?」
 男の太い手首をつかむ、一本の腕。シャンレイであった。微かに蒼く光る長い黒髪、そして冷静な濃紺の瞳。不思議な出で立ちの彼女に、男は一瞬ひるんだ。
「やめておけ」
 静かな声で、彼女は言った。東方中部ではありふれた武闘着を身に纏っていたが、男は知るはずもなく、自分よりも体の小さい者に涼しい顔で手を止められたことにカッとなっていた。
「くそっ、何なんだてめぇは!」
 男は強引に手を振りほどいた。そして、目の前の憎たらしい奴を睨み付ける。
「弱者を虐げるのは、己が弱いからだ。そういった行為で、自己満足を得ているにすぎない」
「はっ! やる気か、小僧!」
 男はニヤニヤと薄笑いを浮かべる。客がざわめく。シャンレイは冷めた目で相手を見返すと、顎でくいっと外を指して出ていった。男は自信ありげに鼻で笑うと、その後を追う。客は野次馬となり、騒々しくついていく。先程まで大勢の客で賑わっていた場所が、一瞬で荒涼とした空間になった。酒場には場違いなほど若い少女が取り残されている。少女はグリーンの目でその群を追った。
「ねぇ。あの人、勝つかなぁ?」
 少女は一人、呟いた。そして、コップの中のジュースを一口飲む。
「あれは武闘家だよ。結果なんて見なくてもわかるよ。首の上のもの、ちゃんと使えば?」
 何処からともなく声がした。すると少女はニコリと微笑み、外へ出ていった。そこでは、言い争いが展開していた。
「――― 調子に乗ってんじゃねぇぞ、小僧が」
 男は顔色一つ変えない相手に苛立っていた。こんな奴は初めてだった。
「御託はいい。かかってこい」
 シャンレイはすうっと息を吸い込んで、構えをとる。
「おいおい、素手でやるのかよ。腰の武器、使っていいんだぜ」
 男は飽くまで余裕を見せようと、肩をすくめる。シャンレイの腰にはトンファが挿してある。しかし、それは腕が使えないときもためのものだ。
「私の武器はこの四肢だ。そのなまくらに太刀打ちできぬような脆い体ではない」
 その言葉に血を上らせた男は、遠慮なく剣を抜いた。そしてその刃を振りかざし、間合いを詰めて斬りかかる。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
 微動だにしないシャンレイに、うなりをあげた剛剣が襲いかかる。
「破ぁぁぁぁっ!」
 シャンレイは気合いとともに腕を交差し、それを受け止めた。彼女の腕は皮膚すら切れていない。
「な、なんだとっ!?」
「力任せでは、私には勝てない」
 素早く剣を払い、懐に入る。男は初めて驚愕した。
「いくぞ」
 右の正拳が鳩尾(みぞおち)をとらえる。男が後ずさったところに、頭部を横からの蹴りを入れる。呻きながらうずくまるこの男は、既に戦闘不能だった。
「これに懲りて、馬鹿な乱闘はやめるんだな」
 シャンレイが低い声で言い放つと、歓声が上がった。物凄い声や指笛に、彼女は唖然とした。野次馬たちはざわざわと彼女の周りに寄ってきた。
「あんた、変な格好してるけど強ぇなぁ」
「あいつを叩きのめしたのは、あんたが初めてだ!」
「わしゃあ、すっとしたよ! ずっと好き放題にされてたからなぁ」
 どうやらこの悪漢は、この町でいつも力任せに悪事を働いていたようだ。野次馬たちの顔は歓喜に満ちていた。
「宿が決まってないなら、ウチに泊まんな! タダにしとくぜ!」
 酒場の主人までがそんなことを言い出し、その夜は大宴会となった。



« back    ⇑ top ⇑    next »