partita 〜 世界演舞

第四章 深き谷に架かる橋(2)


 ゲオルグと別れて、既に一週間あまりが経っていた。延々と続く一本道を進み続けている。その間、暖かい布団には一度たりとも入ることはできなかった。つまり、村どころか民家すら見当たらないのだ。鬱蒼と茂る木々。僅かに差し込んでいる木漏れ日だけが救いであった。秋も終わりに近づきつつあるが、ここは一段と気温が低いようだ。
「ねぇ、あとどれくらい? 少し寒くなってきたよ」
 力ない声がシャンレイに届く。パレッティは寒さのあまりよく眠れないらしい。目を擦りながら歩く少女に、彼女は手に持った地図を見せる。ゲオルグの投げてよこした袋の中に入っていたものだ。あの町から、遺跡までの道に線が引かれている。これによると、村は遺跡近くに一つあるだけだ。
「……あと一日くらいだ。疲れたか?」
 この言葉に素直に頷くパレッティは、ミサキに手を引かれながら歩いていた。パズズもさんざん文句を言っていたが、疲れ果てて少女の肩の上で眠っている。
「そうか。パレッティ、私の背に乗れ」
 シャンレイはミサキに荷物を渡し、しゃがんでパレッティに背を差し出した。彼女は何も言わず、その小さな身体を預けた。シャンレイは後ろ手でその身体を支え、立ち上がる。日は傾いている。もうすぐ闇がこの一帯を包み込む。皆の顔を見れば、疲労が溜まっていることは明白だ。内心、シャンレイは焦っていた。もし今、妖魔や盗賊が現れたら……。
(パレッティは攻撃どころか、身を守ることも難しい。シェーンだって同じだ。それにパズズがこの調子では、攻撃に参加はしないだろう。ソルティとミサキはどうにかなるだろうが、足取りは重くなっている。――― 私の力も落ちているだろう。……運だけが頼りか)
 嫌な予感は、ずっとしている。危機が身を潜め、近づいてきているような気がしていた。
「……シャンレイ、やばいぞ」
 足を止めたソルティの顔が険しくなる。シャンレイも危機が現実となってしまったことに気付いた。――― 何かいる。しかし、どこにいるのか、どんな敵なのか、それはまったくわからない。
「……さて、どうしたものかな」
 彼女は呟いて、パレッティを一度降ろす。ミサキやソルティも、荷物を邪魔にならない場所に置いた。
「ソルティ、ミサキ、足は大丈夫か?」
「あぁ、なんとかな」
 シャンレイの問いに、ミサキはニヤッと笑った。
「こっちも平気だ」
 ソルティは背からグレートソードを抜いた。そして、シャンレイは最も頼りない足取りの少女を見た。
「……大丈夫だよ。なんとかできる」
 シェーンは一生懸命笑って見せた。しかし、間を置かずにソルティが怒鳴る。
「強がってる場合か! 死にたいのか!?」
 疲れのせいか感情を制御できず、激しく彼女にぶつかってくる。シェーンの体力が限界に近いことは誰の目からも明らかだった。耐えられなくなったのか、緊張の糸が切れたのか、その大きな瞳から雫がポロポロと零れ落ちた。
「……だって、……だって! 迷惑、かけたくないんだもん!」
「―――!! 伏せろ、シェーン!!」
 シャンレイの空を裂く叫びに、少女は振り向くことすらできなかった。何が起こったのか。理解した時には、目の前に何かの力が迫っていた。シャンレイすら間に合わない。シェーンも、動くことができなかった。
(もう、だめ……!)
 シェーンがそう思った時、彼女は何か押し倒されたような感覚をおぼえた。正面に倒れ込む。急な衝撃に、シェーンは目を開けることができなかった。
「シャンレイ! 敵は人間だ! あそこに一人!」
 耳の近く。誰かの叫ぶ声。そして、誰かが風のように走り抜ける。
(……シャンレイ……?)
 緊張感が走っている。空気が重たく感じられた。少しすると、誰かの足音が聞こえてきた。シャンレイが、戻ってきたのだろうか。
「……おい、シャンレイ……。ソルティの奴……」
(……ソルティ……?)
 シェーンはハッとして、目を開いた。目の前には、銀色の髪がさらりと流れ落ちている。
「……ソルティ?」
 どうやら庇ってくれたのは、ソルティのようだ。しかし、反応がない。彼女は身を起こした。
「――― ってぇ……」
 微かに声をあげるソルティ。シャンレイの顔から、サッと血の気が引いた。
「……ばっ、馬鹿者が! 格好つけるな!」
 シャンレイは強くそう言って、シェーンの上から彼を退かす。腹部に手を当て、何かの力を発した。その時、シェーンはやっと理解した。――― ソルティの右腹から、大量の血が流れている。同様に、口からもどす黒いものを吐き出していた。
「……ソ、ソルティ……? どうして……? どうしてぇっ!?」
 絶叫ともいうべき声に、ぐったりと座っていたパレッティか身を起こした。
「シェーン、何……?」
 パレッティはヨロヨロと歩いていた。
「パレッティ、来んな。お前は見ない方がいい」
 ミサキは少女の前に立ちはだかった。紅い海。それと対称に、真っ青なソルティの顔。壮絶なこの光景は、まだあどけなさを残す彼女には見せられない。
「――― ソルティ、どうかしたの? ねぇ、ミサキ!」
 それでも、鼻につくこの鉄のような独特のにおいに、パレッティは気付いてしまった。勢いに任せ、ミサキの服を引っ張る。
「……ひでぇ傷だ。やばい状態だな」
 ミサキは端的に言う。
「それだけじゃわかんないよ! どうしたらいいのっ? 私は何をすればいいの!?」
 だんだん混乱していくパレッティは、ミサキを質問責めにした。声が荒くなっていく。
「……静かに、しろっ……!」
 かすれた声が、皆の動きを止めた。ソルティの目が薄く開き、最も混乱しているシェーンに向けられる。
「……これくらいじゃ、死なないから……」
 何とか笑おうとする表情が痛々しい。シェーンの瞳からは、大粒の涙が流れ出した。嗚咽がもれ、顔はクシャクシャになってしまっていた。
「うるさい。黙っていろ。無理をしている場合か?」
 シャンレイは低い声できつく言い、傷口から気を送り込む。ソルティの回復力を活性化させようとしているのだ。彼女の額に、汗が滲んできている。
「シャンレイ、俺が先に行って、神官探してくる。それまで、もつか?」
「……無茶を言うな」
 間に合わん。シャンレイは、ミサキの提案に歯がゆい思いで答えた。横目で二人の少女の様子を窺う。二人に気力と体力がないことは明白だ。
(……どうすれば……?)
 シャンレイは焦る気持ちを抑えようとした。そして、あの時のように祈った。あの、火の海の中にいた時のように。
(――― 風王、どうか御慈悲を! ソルティに御慈悲を……!)
 その時、背後から足音が近づいてきた。敵意は感じられない。ただの通りすがりのようだ。こちらへ向かってくる。
「……あら、どうなさいました?」
 現れたのは、美しい黒髪の女性だった。手に錫杖を持つ神秘的なその女性は、ソルティを見てすべてを把握した。彼の前に錫杖をかざす。
『活力の光、生命の強き灯火よ……』
 静かに響く女性の声に呼応するかのように、錫杖が光を帯びる。光に照らされたソルティの傷口は、見る見るうちにふさがっていく。顔色も良くなった。
「マ、マジかよ……」
 ミサキは目を見開いて、ソルティの傷があったところをしげしげと観察する。種も仕掛けもない。傷跡すらなくなっている。皆、口を開けたまま、呆然とその光景を見ていた。
「これが、神術っていうものなの……?」
 シェーンがぽつりと零した。
「えぇ、そうです。……あなたが回復力を補って、命を繋ぎ止めていたのですね。そうしていなかったら、この方は亡くなられていたかもしれません」
 女性はシャンレイに向かって微笑みかける。シャンレイは我に返り、この女性の瞳を見つめ返した。琥珀色の、美しい瞳が細められる。
「どうやら、私の導かれた先にある星は、こんなにも近くにあったようですね。……そういえば、あなたからは魔力を感じません。何をなさったのです?」
「――― 気、だ。自分の力を放出し、相手の体内で回復力に還元させる」
 シャンレイは呟くように説明した。すると、目の前の女性は何かに思い当たったようだ。
「――― 風の力、ですね」
 ニコリと微笑む彼女に、シャンレイはただ頷くだけであった。
「……で、紹介がまだだったな。俺はミサキ。こいつはシャンレイ。後ろの二人はパレッティとシェーン。で、この倒れているのがソルティだ」
 ミサキは手早く紹介を済ますと、ソルティの顔に目を落とした。彼は眠っているようで、静かに寝息を立てている。
「私はメルシアーナと申します。光の大神殿の巫女です」
 女性は軽く礼をした。それに反応したのはパレッティだった。
「メ、メルシアーナ様!? ……って、神託の巫女様……? 何で、こんな所にいるの……?」
 瞳をまるくして、疑問符を浮かべる。
「無論、神託に導かれて。私の仕事ですから」
 メルシアーナはそっと微笑んだ。シャンレイはパレッティを見る。どこか不思議そうな、まるで小さい子供のような目をしている。
「……光の大神殿? ……神託の巫女?」
 シャンレイには、彼女のその驚き様を理解することはできなかった。
「――― もしかしてシャンレイ、光の大神殿、知らないの……?」
 シェーンはまさか、とでも言いたげだ。シャンレイは当然の如く頷く。
「知らない」
 彼女は真剣だ。すると、メルシアーナが口を開く。
「光の大神殿は、冥神と光神が初めて降臨した地に建てられた神殿です。そして、光神を祀る最大の神殿でもあります」
「光神信仰の中心地なんだよ。その神託の巫女っていったら、神の言葉を受けられる唯一の人なんだよっ!」
 パレッティも興奮して口を挟む。納得したシャンレイは、その目を巫女の方に向けた。
「……あなたは、風王の言葉を聴くことはできないのか?」
 その言葉は、彼女のことを理解するのに充分なものであった。メルシアーナには彼女が何者なのか、その見当がついてしまった。
「私の耳には、光神の言葉しか届きません。ですが、あなたならば……あるいは風王の言葉を耳にすることができるかもしれません」
 メルシアーナの意味深な言葉に、シャンレイはどう解釈していいのか悩み込んでしまった。
「それはさておいて、皆さん。私もあなた方の旅に同行させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
 間を置かずに、巫女は尋ねた。
「えっと……、お仕事じゃ、ないんですか?」
 シェーンはその申し出に、躊躇しながら返した。すると、メルシアーナは優しい笑みを向ける。
「光神が、あなた方の旅の終着に私の成すべきことがあると、そう仰っています。それに、神術を使える私がいた方が、何かと便利でしょう?」
 それは事実だった。皆の視線はやはりシャンレイに集まる。彼女はその意図を理解し、頷いた。
「私は、構わないと思うが。今まで通り、旅が続けられるのであれば」
「――― と、いうわけだ。よろしくな、メルシアーナ」
 ミサキがニッと口の端を引く。メルシアーナも一礼する。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 そして、一行はまだ目覚めないソルティのために、ここで野宿することを決めた。冷たい空気が肌を刺す。その寒さをものともしないのは、精神の鍛えられているシャンレイと、体力の有り余るミサキだけだった。ミサキは自分の毛布をソルティに提供する。シャンレイは毛布にくるまるパレッティを抱きかかえるように座って、肩にマントを掛ける。メルシアーナとシェーンは、互いの毛布を共有し、並んで座っている。焚き火がパチパチと音を立てた。
「収穫祭もあと数日あるというのに、ここはやけに寒いですね」
 メルシアーナは困ったように呟き、溜息をつく。天を仰げば、葉のすき間から星が見える。
「うん……。パズズも起きようとしないし……」
 パレッティは、肩にいる使者の翼や足を引っ張ってみる。反応はない。シャンレイがのぞき込むと、眉根にしわを寄せ、ムキになって眠ったふりをしている。
(……例の狸寝入りか。今度は何がお気に召さなかったのやら……)
 溜息一つ。誰にも気づかれないように、こっそりと息を吐き出す。
「――― パズズ。その子がパズズですか……?」
 突然目をまるくして、メルシアーナが呟いた。それに過剰な反応を見せたのは、他でもないパレッティだった。
「メルシアーナ様、パズズのこと、知ってるの……!?」
 思わず身を乗り出そうとする。目の前は火だ。危ないだろう、とシャンレイが引き戻す。
「聞いたことがあります。確か、冥神唯一の第一級高位体。その力の強大さ故に、肉体と精神を分けられたとか」
 メルシアーナは遠い過去の話をするかのように言う。そっと微笑みを向ける。
「――― ……ん、うぅ……ん……」
 そんな話をしていると、ソルティが呻くような声をあげた。どうやら、目が覚めたようだ。
「……ソルティ、大丈夫?」
 シェーンがまだ不安そうに声をかける。目元が腫れてしまっている。
「――― あぁ、少し頭が痛いだけだ……。って俺、脇腹を……」
 ハッとして、毛布の中で攻撃を受けた場所に手を当てた。服が破れている。しかし傷はない。どうやら、夢ではないようだ。
「傷はこの、メルシアーナ殿が治してくれたのだ」
 シャンレイは、すっと顔を美しい巫女の方に向けた。
「シャンレイ、[メルシアーナ]で結構ですよ」
 彼女はそっと微笑をのぞかせると、ソルティに軽く一礼する。
「はじめまして。メルシアーナと申します」
「メルシアーナ……って、まさか神託の巫女様ですか!?」
 ソルティは驚いて、思わず身を引いた。
「えぇ、そう呼ばれております」
 メルシアーナは少し彼の反応に驚いていた。気を取り直し、ソルティは姿勢を正す。
「あっと、俺はソルティです。助けていただいて、ありがとうございましたっ」
 目の前の気品ある女性は、思わず見とれてしまうほど美しかった。その華やかな美貌に、彼は目を奪われていた。
「……ソルティ、鼻の下、伸びてるぜ。みっともねぇな」
 お前が騎士になったらスケコマシになりそうだな、とミサキは冷めた目を向けた。ソルティはハッとして、片手で顔を覆う。
「……しかし、我々がこれだけ疲労しているのに、あなたはそうでもなさそうだ」
 シャンレイは話題を変える。不思議そうに呟きながら、焚き火に枯れた枝を入れる。
「途中の獣道を入ったところに、何軒かハンターの住まいがあったので泊めていただきました」
 メルシアーナはふと笑みを見せる。成程、頭は使わなければただの飾りだな。シャンレイは力なくそう思った。
「それより、彼の傷は魔法によるものですよね。一体、何にやられたんです? ライカンスロープは魔法に対し、抵抗力があります。それなのに、あれだけの傷を付けるなんて……」
 聖女は突然厳しい眼差しを向ける。ソルティとシェーンは首を振る。ミサキがシャンレイを横目で見た。
「何だったんだ? 敵さんは」
「――― おそらく人間だ。ただし、身体機能はおいそれ人とは言い難いものだったが。オーラも尋常ではない」
 シャンレイは燃え上がる炎を瞳に映したまま、それに答えた。赤い、心地よい光が表情に影をつける。
「人間、ですか……」
 メルシアーナは口元に手を当てる。うつむいて、何か考えているようだった。
「……ねぇ、前にもあったよね。人間の魔術師みたいな人に襲われたの」
 パレッティはシャンレイの顔を見上げる。心配そうに、小さい手で毛布をギュッとつかんだ。そう、ソルティが操られてしまった、ファラサーンへ向かう途中のあの事故だ。
「……そうだったな。何しろ、気をつけねばなるまい」
 シャンレイは少女の頭を優しく撫でた。それから、彼女の肩に目を移す。「僕は眠っています」と主張するかのように、ムキになって目を閉じている使者様。
(……いつまでこんな事をしているつもりなんだ?)
 シャンレイは溜息をつきたくなる。
「で、シャンレイ。あなた方の目的は……、この先にある冥神の神殿遺跡なのですか?」
 メルシアーナは話を本題に戻す。それに対し、パレッティが頷く。
「うん、今は」
「あそこには、まだ解読されていない石碑があると聞いた。我々は今、パズズの器を探している。その手掛かりがあれば、と思っているのだが」
 シャンレイが補足すると、聖女は目を細めた。
「そうですね……。あの遺跡は相当古いもののはず。一説によると、冥神がその石碑を建てたと言われています。誰も解読できないのは、神の言葉で書かれているからかもしれませんね」
「行けば、収穫はあるってとこだな」
 ミサキは口元に満足そうな笑みを浮かべた。焚き火がゆらりと揺れ、枝の弾ける音を繰り返す。
「地図からすると、あと一息だろう。今日は明日のため、眠った方がいい。見張りはミサキと私が交互にやろう」
 シャンレイはまた火の中に枝を放る。ソルティは自分が見張りから外されたことを疑問に思い、その目をシャンレイに向ける。
「お前は回復したばっかりだろ。しっかり寝てろ。明日はきりきり働かすぜ?」
 ミサキは皆に寝た寝た、と手を振る。そして、腰に差していた刀を鞘ごと抜いて、握りしめる。
「頼む」
 ソルティは謙虚に頭を下げて眠る体勢になった。気持ち悪ぃの、とミサキは眉を寄せる。皆も少し驚いた様子だったが、すぐに眠ってしまった。その夜、何かが襲ってくることはなかった。



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