partita 〜 世界演舞

第六章 汝を守るための剣(4)


 朝になっても雨はやまなかった。むしろ、本降りになっている。シャンレイは前日の宣言通り、とんでもなく早い時間に皆を叩き起こした。天候が良かったとしても、空が白み出すか出さないかくらいの時間だ。すんなりと起きられたのは、セルリオス、エルディス、グレイスの三人だけだった。あとの三人は半分寝ぼけたまま、馬車に乗り込んだ。馬車は北へと走っていく。御者を務めるのはエルディス。馬車の前方にはグレイスが馬を走らせ、後方にはセルリオスが付いている。嵐のような雨の中、物凄いスピードで走り抜けていく。前方を走る騎士の背中からは不安と焦燥が見て取れた。
「エルディス。姫の屋敷の警護はどうなっているのだ?」
 シャンレイがエルディスの隣に腰を下ろす。
「グレイスから聞いたところだと、セルリオスから派遣していただいた騎士が一人。それから近衛騎士隊からも、十人ほどそちらへ行っているそうです」
 エルディスは前方を見据えたまま答えた。
「……警護はそれなりに固めているのだな。しかし、それでも尚、グレイスが急いでいるのは何故だ……?」
 独り言のように呟き、シャンレイはしばらく騎士の背中を見つめていた。すると、エルディスが困ったように笑った。
「アリア姫の護衛は、グレイスの仕事です。何よりも最優先しなければならないことです。それと、グレイスは肌に感じている嫌な予感に怯えているんだと思います」
「怯えている……?」
 シャンレイは眉をひそめた。エルディスは顔に降り注ぐ雫を払い、その疑問に答えた。
「グレイスの嫌な予感は、大事が起こらない限り消えることはありません。今までに一度たりとて大事を食い止めることはできませんでした。それは彼女自身が、何に対して嫌な予感を感じているのかわからないからです」
 前方のグレイスはおそらく一つのことしか考えていない。一刻も早く屋敷に着き、アリア姫たちの姿を確認すること。……無事を信じようという気持ちよりも、もしやという気持ちの方が強くなっている。
「……シュテルナ王妃の急死は、一年も前から予感していました。しかしグレイスには『シュテルナ王妃の死』を感じることはできなかった。彼女はいつだって、不安を抱えているのです」
 エルディスはシャンレイに向かい、軽く微笑んだ。それは、自嘲の笑みのようでもあった。グレイスがどんなに不安でいても、まわりの者たちは何もしてやることができないのだ。シャンレイは再びグレイスに目をやった。彼女を取りまくオーラはひどく不安定だった。
「……何が起ころうとも、グレイスには水王の加護がある。そんなに悲観的な状況ではないはずだ。……それをわかってくれるといいのだがな」
 叩きつけるような雨が続く。風も荒れ狂い、視界は不明瞭だ。雨の音で、蹄の音すらかき消されている。――― シャンレイも、一抹の不安を抱えていた。風が囁いているような気がするのだ。疾(はや)く、疾く辿り着いて、と。
「――― それからもう一つ。グレイスの神剣[冷晶剣]がおそらく彼女をせかしています。あの剣は意志を持っています。グレイスにだけ、あの剣の声が聞こえるという話です。おそらく、[冷晶剣]は何かを感じたのではないでしょうか」
 グレイスは、確かに腰の神剣をやたらと気にしている。エルディスは鞭打った。馬の足がいっそう速くなる。雨でぬかるんだ大地に足を取られながら、馬車は進む。
「……意志を持つ剣、か」
 シャンレイはそう呟くと、黙ってしまった。すると、セルリオスの馬が馬車の横につけてきた。
「この調子では馬が持たなくなるぞ! エルディス、グレイスを一度止めてくれ! 馬を休めよう!」
 セルリオスの提案はもっともだった。そろそろ昼を過ぎるが、走りっぱなしだ。馬でおよそ二日の距離。こんな調子で走り続けたら、馬が先に走れなくなる。エルディスはその言葉に頷くと、片手をグレイスの方にかざした。何らかの念をこめると、グレイスはハッとして手綱を引いた。そして、こちらを振り返った。
「……ごめん。冷静さを欠いたわ」
 気が弱くなっている。……その顔にはそう書いてあった。エルディスは馬車を降りると、彼女の元まで行った。
「グレイス。脆弱な精神は、可能性を狭める。あなたにはアリア姫をお守りする役目がある。絶対に守り抜くという信念さえあれば、姫をお守りすることは難しくないはずだ」
 柔和な彼の表情は厳しいものになっていた。グレイスは一度うつむくと、キッとして顔を上げた。
「わかったわ。――― 大丈夫よ」
 凛とした表情は、とても印象的だった。そこには騎士としての、選ばれし者としての誇りがあった。セルリオスは髪を掻き上げると、深く頷いた。
「よし。あと道のりは半分くらいだな。雨の降りが激しい。一度休憩しよう。いくら軍用馬でも、この道では相当疲れているはずだ」
 しばしの休息を得、馬たちを休めてから再び雨の中を走る。幾分か小雨になったが、視界も足場も悪いことには変わりはなかった。結局、二日でつく道のりは半日余計にかかってしまった。
 屋敷が見えてきた。グレイスはハッとして馬を鞭打つ。不穏な空気が流れていた。それはシャンレイやエルディスたちも感じていた。
「……何だか嫌な感じ……」
 シェーンは羽根をたたんだ。降り続く水滴の向こう。シャンレイはグレイスが馬から飛び降りたことを確認した。
「――― まさか……!?」
 シャンレイも馬車を飛び降りる。
「シャンレイ!? おい! どうしたっ!?」
 ミサキが声を上げる。ただならぬ気配に、シェーンも飛び出した。
「――― しっかりしなさい! 気を弱くしては駄目よ!」
 グレイスは倒れていた門番を抱き起こしていた。
「……グ、グレイス様……。すいません、我らが不甲斐ないばかりに……」
「グレイス、揺するな。傷が開く」
 シャンレイは兵士の鎧を脱がせると、傷口に手をかざし、気を送り込んだ。飛んできたシェーンもその有様にすかさず神術をかける。みるみるうちに傷は癒されていく。
「事が起こったのはいつです?」
 後ろからやってきたエルディスが、門番に尋ねる。
「……ほんの少し前です。雨の中、音もせずに突然目の前に現れ、これを投げつけられました……」
 門番は一本のナイフをエルディスに差し出した。エルディスはそれを受け取り、眉をはねさせた。
「……これは……」
「……ちょ、ちょっと、これって王弟殿下の紋章……!」
 ナイフの刃に刻印されている紋章。それを目にしたグレイスが思わず声に出す。
「お家騒動なの……?」
 シェーンはエルディスを見上げる。
「いや。その可能性は低いな」
 そう言ったのはセルリオスだった。その後ろから、ミサキとウェナーもついてくる。
「わざわざ家紋の入ったナイフを投げつけるか? おそらく、王弟殿下に罪をなすりつけるためだ。ケネフ一世陛下とは仲が悪いらしいしな。今回の首謀者は別の人物だ」
「……その通りだと思います」
 エルディスの顔は、やけに強張っているようだった。深刻な表情で、軽く頷く。
「それより、アリア姫とニベット様は!?」
 グレイスはさらに門番に問いつめる。
「ニベット様は、昨日からファラサーンからの使者と会うため、離宮に行かれています。アリア姫様は……、オクセール殿が守っておられるはずです……」
「―――!?」
 グレイスはギクッとした。彼女の「嫌な予感」はまだ終わっていない。最悪のパターンが目に浮かんできた。
「オクセールか。我がファラサーン騎士団から送り込んだ護衛だな」
 セルリオスは目を細めた。
「……どちらにせよ、戦いは終わっているようです。静かですから。……急ぎましょう、グレイス」
 エルディスはグレイスに手を差し出した。グレイスはその手を取って立ち上がる。
「わかったわ。あなたは少し休んでいなさい。――― 行くわよ」
「お待ち下さい。私も動けます。私にできる事、何でも申しつけて下さい」
 門番は立ち上がって彼女の背中に告げる。その機敏さにはシャンレイもシェーンもいささか驚いていた。
「……では、あなたは離宮と王宮に連絡を取りなさい。離宮の守りを固めること。そして、こちらのことは心配無用、と」
 グレイスは振り返って告げる。門番はキリッとした顔で敬礼する。
「承知いたしました。近衛騎士隊筆頭、グレイス様の命により、離宮、及び王宮に向かいます」
 門番は厩の方へ走っていった。
「私たちも行くわよ」
 グレイスはそう言い残して屋敷の中へ駆け込んでいった。門は打ち破られ、騎士たちの死体が無惨な姿で転がっている。中には見慣れない顔もあった。おそらく、犯人は複数人だったのであろう。グレイスは歯を食いしばり、迷わず一つの部屋に向かった。
「――― オクセール!!」
 グレイスは部屋について早々、声を張り上げた。そして、言葉を失った。固まったように動かなくなったグレイスの後ろからついてきた一行は、何が起こったのかわからずにいる。そして、部屋の惨状を見てその意味を理解した。
「……うぅっ……」
 シェーンが思わず口を押さえて目を背けた。窓ガラスが割れ、家具が散乱している。嵐の通りすがったような部屋は、一面が紅に染まっていた。部屋のすみに、黒ずくめの男の死体が二つ。そして、中央には一人の騎士が横たわっていた。……足が片方ない。そして、炎を浴びせられたかのように金属の鎧が黒くなり、所々が熔けたかのように変形していた。
「……オクセール……?」
 グレイスは紅い海の中に入っていった。そして、騎士の上半身を抱き起こす。
「――― ……グ、グレイス、か……?」
 か細い声が耳に届いた。ハッとしてグレイスは彼の顔を見た。
「生きているのね!?」
 その言葉に、シャンレイとシェーンが駆けつけようとした。しかし、騎士オクセールは力なく微かに首を振った。
「……無理だ。今からでは、間に合わない……。自分で、わかっている……」
「諦めるんじゃないわよ!」
 グレイスは必死になって怒鳴りつける。
「……すまない。姫を守りきれなかった……。連れ去られてしまったこと、不甲斐なく思う……」
 オクセールはグレイスの言葉をあえて無視した。
「生きている可能性があるなら大丈夫よ! だから死んでは駄目よ!」
 グレイスは噛みつきそうな勢いで言い続ける。その姿がひどく苦しくて、エルディスは顔を歪めた。セルリオスが死に瀕した部下の元へ行く。
「――― オクセール、よく戦った」
 それ以上の言葉がそこに詰まっている。オクセールはハッとして笑顔になった。
「セ、セルリオス様……。生きて再びお会いできるとは、思ってもみませんでした……」
「もっとちゃんとした姿で会いたかったものだな」
 セルリオスは飽くまでも冷静に告げた。その様子に、グレイスはカッとなった。
「セルリオス! あなたまで諦めているの!? オクセールはまだ生きているのよ!」
「グレイス。長たる者は、いかなる時も冷静な判断ができなくてはならない。死地に赴いた者は、自分の死が迫り来ることを肌で感じて知っている。オクセールはそれをわかっている」
 セルリオスは冷たい目を向けた。部下の死に目には何度も遭ってきている。だからこそ言える言葉だった。
「……セルリオス様、ありがとうございました……。私は、この任務に就けたことを誇りに思っています……。ここで出会った人々が、私に本当の騎士というものを、教えてくれたような気がします……」
 オクセールは震える手をセルリオスに差し出した。彼はその手を取り、しっかりと頷いた。
「ありがとう。……その言葉が、私の心を救ってくれる」
 セルリオスは目を伏せる。今にも泣き出しそうな表情のグレイスの肩を、そっとエルディスが叩いた。
「……騎士たる者はいかなる時も、忠誠を誓った者を守るために命を賭しています。オクセールさんはそれを全うしたのです。悲観してはなりません」
 グレイスが近衛騎士筆頭についてから、大きい戦は起こっていない。彼女は同胞の、盟友の死を経験したことがなかった。それゆえ、このショックは相当のものだったと思われる。
「……グレイス。姫を、私の代わりに救い出してくれ……。奴らは姫を操って成り上がるつもりだ……」
 オクセールは力を振り絞り、かすれる声で告げた。
「――― わかったわ、オクセール。アリア姫は命に代えても救い出す!」
 グレイスは力強く彼に言葉を返した。オクセールは安心したかのように少しだけ安堵の笑みを見せ、そのまま動かなくなった。―――激しく叩きつける雨粒の音だけが、屋敷の中に響き渡る。グレイスは彼を寝かせると、祈りの言葉を呟いた。[冷晶剣]が瞬間的に、淡い光を発した。
「……わかっているわ。姫はまだ無事なのよね」
 グレイスは腰の剣に触り、小さく呟いた。そして立ち上がる。強い意志を秘めたオーラが彼女のまわりに現れる。シャンレイはしっかりと頷いた。
「門からは出ていった形跡がない。おそらく、別の場所だ。グレイス、見当はつくか?」
「えぇ。裏に出口があるはず。そこから出ていったと思うわ」
「……その先は馬車では通れません。馬だけで行きましょう」
 グレイスに続いてエルディスが提案する。馬は馬車についているのも入れて四頭。七人乗るには少し辛い。シャンレイは先程の門番のことを思い出し、窓に向かった。
「シャンレイ、何処へ行くんだ?」
 ミサキが間髪入れずに尋ねる。
「厩を見てくる。もしかしたら、何頭か残っているかもしれない」
 それだけ言うと、シャンレイはガラスの破片に気をつけながら窓を開け、外に飛び降りた。
「私たちも行こう」
 セルリオスは皆に声をかけた。
「相手に気付かれていないうちなら、どこにいるかわかります。道案内は私に任せて下さい」
 エルディスが厳しい顔を見せた。犯人に心当たりがあるようだ。セルリオスは神妙な顔で頷いた。
「――― オクセール、ごめんなさい。少し待っていて。姫を助けたら、その報告に来るわ」
 返事が返ってくるわけではなかったが、グレイスは横たわる騎士にそう告げた。一同は外へ出ていった。裏の出口の方には、シャンレイが待っていた。どうやら、一頭だけ無事に残っていたようだ。エルディスは馬車から馬を外してくる。
「……馬に負担を与えない方がいい。私は走ろう。馬にだったら負けるつもりはないしな。それにおあつらえ向きに風が強くなってきた。風が私に味方してくれるだろう」
 シャンレイは連れてきた馬をミサキに渡す。
「シェーン、後ろに乗って」
 グレイスはシェーンに手を差し出した。少女はその手を取り、身軽に白馬の背にまたがった。エルディスは一頭の手綱をウェナーに渡すと、馬を走らせてその背に飛び乗った。それに一同が続く。最後尾をシャンレイが走ってきた。エルディスの馬の横に、グレイスがつけてきた。
「エルディス! 何か、わかっているの!?」
 風と雨に負けぬ声で尋ねる。
「――― 誰の手引きかはわかっています! おそらく、これは私がケリをつけねばならないのでしょう!」
 エルディスは具体的なことは何一つ口にしなかった。グレイスにはそれだけで、誰が犯人なのか見当がついた。しかし、それについてはあえて触れないことにした。
「どこへ向かっているの!?」
「おそらく、クリストリコの近くです! 確か、南西の方に小さな村があったと思います! そのさらに西に一軒の家があるはず! おそらくそこが目的地だと思います!」
 その場所をグレイスはよく知っていた。幼い頃、幼なじみとその両親に連れられて遊びに行った場所だ。春の麗らかな陽差しの中、一面に広がる花々を集めて走り回っていた。……グレイスと、エルディス。そして、そこにはいつももう一人の姿があった。
(――― ……ケヴィン……、あなたなのね……)
 グレイスは唇を噛みしめた。いつでも一緒だった三人は、彼女が宮廷入りした頃からバラバラになった。……また春の暖かな日に、あの場所へ三人で行こう。そんな約束を残したまま。
(……ここからだと、どれくらいかかる? 三日? 四日? 差は縮まるの?)
 グレイスの焦燥感が一気に膨れ上がった。シェーンはそれに敏感に反応した。
「グレイス、お姫様は怪我一つしないで連れて行かれたんでしょ? きっと殺すのが目的じゃないんだよ。だから大丈夫だよ、信じよう?」
 シェーンはグレイスの背中にコツンと額をくっつけた。それだけで、何故か彼女の焦りは消えていった。何かの魔法がかかったみたいだった。
「……そうね。ありがとう、シェーン」
 呟いたグレイスに、シェーンはそっと笑みを見せた。
「おそらく、小屋につく前に追いつきます! 向こうはクリストリコから走ってきているんです! 馬の疲労もさることながら、人の体力だって戦いで消耗しているはずですから!」
 エルディスはまるで彼女の心の内を見透かしたようなことを言う。グレイスは驚く反面、思わず苦笑が零れた。この男には、すぐに考えていることが見破られてしまう。――― いつものことだった。
「わかったわ! とりあえず、疲れて戦えないなんていうことにならないようにしてね!」
 グレイスは皮肉ったような言葉を返した。エルディスも苦笑した。豪雨もさることながら、風もやみそうにない。道のコンディションは最悪だ。それでも、彼女たちには走り続ける以外のことはできなかった。



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