partita 〜 世界演舞

第六章 汝を守るための剣(7)


 背後を気にしない、などということはできない。後ろ髪を引かれる思いでひたすら走った。向かう場所は姫の攫われたあの屋敷。グレイスの頭の中では、エルディスのことと同じくらいにオクセールのことが気になっていた。唇を噛みしめて、馬を走らせる。いつもと様子の違うグレイスに、アリアも気付かずにはいられなかった。
「……グレイス、どうしたの?」
 毅然とした口調が耳に入ってきた。
「――― 姫に、申し上げなければならないことがあります」
 躊躇うことは良しとしなかった。前を見据えながら、アリアに告げる。
「……オクセールのこと……?」
 小さな姫君は察しがよかった。表情一つ崩さずに、その事を言い当てた。
「そうです。オクセールは姫のことを心配しながら、息を引き取りました。彼は、今でもあの屋敷の中で姫が無事に戻るのを待っています」
 グレイスはしっかりと姫の耳に届く声で言った。
「――― わかりました。オクセールに、最期の挨拶にいくのね」
「……はい」
 姫は、涙一つ浮かべなかった。常に凛とした表情で、前だけを見つめていた。蹄の音も、木の葉が擦り合う音も、おそらく彼女には届いていない。そして草の匂いも水の香りも感じられないほどに集中していた。……オクセールの死を受け止めるために。
 一日が過ぎた。エルディスたちはやってこない。もしかしたら、別の道から向かっているのかもしれない。そう考えた時、シェーンの声が聞こえた。
「セルリオス! ねぇ! 後ろからセルリオスが来てる!」
 ハッとして手綱を軽く引き、馬の脚を遅くする。すると、セルリオスの白馬が彼女たちに追いついた。
「すまない、遅くなった」
「――― エルディスは?」
 ウェナーがすかさず尋ねる。セルリオスの顔は少し厳しくなる。
「ケヴィン殿を王宮に連れていくと。先に王宮へ向かっている」
 その言葉に、グレイスは複雑な気持ちになった。二人の戦いはどうなったのだろうか。あの二人がぶつかって、ただで済むわけがない。ケヴィンは今、どのような状態なのだろうか。すると伯爵はグレイスの横に並ぶ。
「……ケヴィン殿は自己を喪失した。自らの意志で動くことができない」
 彼女の気持ちを察し、セルリオスは告げた。彼女の表情が、一瞬だけ翳る。しかし、すぐに毅然としたものに変わった。
「仕方ないわよ。ある意味、当然の結果だったかもしれないわ」
「エルディスは無事なのね?」
 だめ押しで尋ねたのはアリア姫だった。
「はい。彼は無傷です。……姫にお怪我はございませんか?」
 セルリオスは恭しく尋ねる。
「私は何ともないわ」
 そして、ちらりとシャンレイの方を見た。彼女も気付いて微笑みかける。すると、ホッとしたように姫も少しだけ笑みをのぞかせた。その後、誰一人として口を開く者はなかった。蹄が大地を蹴る音だけが静寂の中に響き渡る。重々しい空気とは裏腹に、空には太陽が輝いていた。
 屋敷に辿り着いたのは、夕暮れだった。既に数名の騎士が本国よりやってきていた。グレイスたちの姿を見ると、恭しく頭を下げる。
「こちらは心配無用と言ったのに……。誰の采配?」
 グレイスは騎士の一人に尋ねた。
「はっ。国王陛下直々の命により、我々一小隊がこちらへ来ました」
 ハキハキとした声が耳に届く。グレイスは苦笑した。
「陛下も、ひどく心配なさっていたのね。それで、屋敷内の片付けを?」
「……我々にできることは、死んでいった同胞たちを弔い、この屋敷を早く元の状態に戻すことくらいですから」
 騎士はうつむき、そう言った。
「……そう、ありがとう。彼らの死を無駄にはしないようにしましょう」
 グレイスはそっと微笑みを見せた。騎士はそれに対して、言葉を発することができなかった。何度も、何度も頷いた。
「グレイス様。それから一つ、不思議なことが」
 別の騎士が告げる。
「オクセール様の遺体なのですが……、まるで生きているかのように綺麗な状態で残っています。何かの力が働いているようで、我々は触ることすらできません」
 その報告に、グレイスはハッとした。そして、腰に下げた神剣をすらりと抜く。透明な刀身が微かに光る。
「……やはりお前なのね、クリスティア。……ありがとう」
 グレイスは、そのままオクセールと最期に会った場所へ向かった。その背後からアリアがついていく。皆もそれに続く。二階に上がると、そこは何故だか空気が澄んでいた。おそらく、これも神剣の仕業であろう。オクセールのいた部屋の前で、グレイスは足を止める。そして、アリアの方を振り返った。
「姫、これを」
 差し出したのは、あの真珠の入った小袋であった。アリアはそれを受け取ると、まっすぐに自分の騎士を見つめた。
「ありがとう、グレイス」
 それ以上は言葉にしなかった。グレイスは一呼吸置いて、ドアを開けた。アリアは躊躇せずに中へ入っていった。あの日から、数日が経っている。しかし、オクセールの身体は死んでいるとは思えないほど綺麗だった。――― 現実。いかに美しくあろうとも、彼は既にこの世にはないのだ。アリアはそれをしっかりと受け止めた。そして、オクセールの前に膝をついた。
「……あなたのおかげで、私は助かることができました。ありがとう。……そして、あなたの次の人生がもっと幸せであることを願います……」
 そう言って、アリアは祈りを捧げた。グレイスや、他の者も同じように黙祷した。グレイスは神剣を彼の前にかざす。すると、彼を包んでいた水王の加護が消えてしまった。――― そしてここを去る時、姫はグレイスに渡された小袋をオクセールの元に置いてきた。彼女の、精一杯の想いだった。
 一行は一路、クリストリコ王宮に向かって走った。クリストリコまではかなりの距離がある。王宮からあの別邸や離宮に向かうのには、時間がかからない。王宮には一方通行ではあるが、転移の魔法陣がしかれている。辿り着くのは一瞬だ。それ故に兵士たちがすぐにあの場所に来られたのだ。馬で走ること数日。小さな村に辿り着いた。幸運なことに宿が存在し、ゆっくりと身体を休めることができた。北へ向かっているせいもあって、外の空気は非常に冷たい。馬での遠出など経験のないアリアにとっては、非常に厳しい道のりであった。
「……星が綺麗……」
 アリアは一人、先に部屋に戻ってきていた。他の者たちは下で食事をしている。しかし、アリアには食欲がなかった。スープを飲み、体を温めるだけで精一杯だった。部屋の中はシンとしている。星が瞬き、暗い部屋の中には月の光が射し込んでいる。風は吹きつける。冷たい風に吹かれ、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。いつも側にいて、微笑みかけてくれたあの騎士はもういないのだ。そう思うと、自然に涙が出てきた。その時、ドアがノックされた。ハッとして涙を拭く。
「誰?」
「シャンレイです。入っても構わないでしょうか?」
「……えぇ、どうぞ」
 姫の返答を確認したシャンレイはドアを開けた。暗がりの部屋に姫が一人でいる理由はわかっていた。シャンレイは意識的に明かりを点けなかった。
「窓を開けたままでは、風邪を引きます」
 椅子にかけてあったショールをアリアの肩に掛ける。彼女はこちらを見ない。夜空に輝く星から、目を離そうとはしなかった。
「……ねぇ、シャンレイ。何故、人は死んでしまうの?」
 呟きが耳に届いた。シャンレイは姫と同じように窓の外を見つめた。
「……それに答えはありません。私もその答えを探している者です。しかし、人が死に逝くことが無意味であってはならない」
 彼女の言葉には、自分の思いが込められていた。そして、その言葉の重みをアリアは感じ取ることができた。
「――― では、オクセールの死には、なんの意味があったの……?」
 不意に、姫はシャンレイの夜空にも似た色の瞳を直視した。哀しみ、そして憤りがそこにあった。
「それを見つけ出すのは、姫ご自身の役目。この先、彼の死が姫に何かを教えてくれるはずです」
 片膝をついて、視線の高さを合わせる。そして、そっと微笑みを見せた。アリアはその言葉を上手く飲み込めなかった。おそらく、姫にとって初めての体験だったのだろう。大切な人の死。それに簡単に耐えることのできる年齢ではないはずだ。
「わからないっ。だって、オクセールは私のために死んじゃったのよ! 私がっ……、私が死んじゃえばよかったのよ……!」
 感情が高ぶり、幼い少女の瞳から涙が流れ落ちた。
「――― 失礼」
 シャンレイは断りを入れてから、軽く姫の頬を叩いた。パシッというかわいた音が響き、姫は叩かれたことよりも目の前にいる人物の哀しそうな顔に驚いた。シャンレイは、アリアの姿に幼かった頃の自分を重ねていた。
「……オクセール殿は、姫を守るために命を賭した。その姫君が自らの命を軽んじては、彼の行為すべてが無駄になります」
 細い肩をつかみ、シャンレイは諭すように言い聞かせた。アリアはクシャクシャの顔になった。しかし、泣くまいとどこかで耐えている。うつむいて、その表情を隠そうとする。シャンレイはどこかでホッとした。アリアも年相応の少女なのだという事実。それがシャンレイを安心させたのだ。
「……今までよく耐えた。しかし、もう我慢しなくていい。泣きたい時には存分泣いた方がいい。大丈夫。ここには誰もいない。あなたが無理をしてみせなければならない者は誰もいない」
 シャンレイはそう言って、アリアの頭を優しく撫でた。すると、アリアは思わず彼女に抱きついて泣いた。大きな声で泣いた。幼い姫君は、物心ついてから初めて大声で泣くことを許された。夜の帳が二人を覆い隠す。ここにいるのは「クリストリコ聖王国の王女」ではなく、「十歳の少女」だった。
 ひとしきり泣くと、アリアは顔を上げてシャンレイを見た。
「……背中の傷は、大丈夫?」
 アリアを庇って斬りつけられた背中。シャンレイにとっては傷のうちに入らないが、目の前でそれを見てしまった彼女にはとても気がかりのようだった。
「何ともないですよ。身体だけは丈夫ですから」
 心配を取り払うように、笑顔を見せる。アリアの表情はホッとしたものになったが、戸惑いをみせた。
「……何故、庇ってくれたの? オクセールやグレイスは騎士だわ。私を守らなければならない使命がある。でも、シャンレイは違う。どうして庇ってくれたの?」
「――― 理由がなければ、いけないでしょうか?」
 シャンレイもあまり考えていたわけではない。アリアに剣が向けられた瞬間、咄嗟に身体が動いたのだから。アリアはその言葉に驚いて、彼女を見返した。
「理由なんてない。気がついたらそこにいただけです。……もう少し早く気付いていれば、斬られる前になんとかできたのですが」
 苦笑して、シャンレイは頭に手をやった。すると、アリアは彼女にギュッと抱きついた。
「――― ……ありがとう」
 小さな声で囁いた。急に可愛らしくなってしまった姫。シャンレイは微笑んで、少女の頭を撫でた。
「さぁ、お疲れでしょう。今日はゆっくり休んで下さい。明日も厳しい旅が続きますから」
 彼女の言葉に、姫君は素直に頷いた。シャンレイは靴を脱がせ、ベッドに姫を寝かせる。そして、シーツを掛けてここを去ろうとした。しかし、その手を姫がつかんだ。
「……お願い。寝るまでここにいて?」
 不安そうなアリアの声に、シャンレイはしっかり頷いた。すると、安心したように彼女は目を閉じる。月の光が、窓から消える。暗くなった部屋の中に、少女の静かな寝息が聞こえ始めた。そっとここを去ろうとしたシャンレイは、自分の手がまだ握られたままであることに気付いた。この手を離したら、起こしてしまうだろうか。少し困惑して、少女を見ていると、小さなノック音がしてグレイスが入ってきた。
「……お休みになったのね」
 ホッとした顔でシャンレイに告げる。
「あぁ。だが、手を離しても平気だろうか……?」
 苦笑して、シャンレイも彼女の方を見た。すると、グレイスは少し驚いた顔でシャンレイを見る。
「ずいぶん姫に気に入られたのね。私には絶対に甘えたりしないのよ、アリア姫は」
「――― それは、グレイスが『自分の騎士』だからだろう。虚勢を張っているのだ。しかし、私は完全な部外者だ。無理してみせる必要のある相手ではないだろう」
 シャンレイはアリアの頭に空いている手をかざした。穏やかな、暖かい風が集まってくる。シャンレイは目を伏せて、小声で何かを呟いた。すると、風はアリア姫を包み込み、静かに消える。
「何を……?」
 グレイスは目を瞬かせた。
「安眠のまじない、といったところかな」
 シャンレイはそう言うと、そっと少女の手を離した。そして、後は頼んだ、と言い残して部屋を出ていく。グレイスは、安堵の溜息をついて彼女を見送った。
(……よっかた……。これで少しは大丈夫かもしれないわね、姫は……)
 グレイスは微笑みを残し、隣のベッドに潜り込んだ。明日のために、身体が休息を欲しがっている。彼女は間もなく、眠りに落ちた。



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