白の死神

        (4)

 それから一週間後、シャナイたちは凱旋した。民衆の歓声を受けながら、兵士たちが城内へと戻ってくる。晴れ晴れとした表情で皆に手を振っているが、シャナイだけは違った。
 その表情に、彼独特の人懐こい笑みが浮かぶことはなかった。
「シャナイ、それからアクメイアの勇猛なる兵士諸君、見事であった。今宵は宴だ。存分に楽しんでくれ」
 ファルトが兵士たちに告げる。兵士たちからも歓声が上がり、城の前は祭りのように賑やかになった。しかし、それを避けるようにその場を立ち去ろうとする者がいた。―――シ ャナイである。
 眩しい陽射しを避け、裏から城内へ入る。石造りの城特有の冷たさが、彼の体を冷やしていく。目を閉じて、深呼吸する。
「――― シャナイ兄さん……」
 不意に、背後から呼ばれる。シャナイは振り向かない。彼は、ウェンリの望まないことをしてしまったから。
「……兄さんが契約の書を持ち出すとは、思っていませんでした。あれは、本当なら私が使うべきだったのに……」
 ウェンリは消え入りそうな声でそう言う。
「――― ふざけるな。あれをお前が使ってどうする? 戦にも出たことのないお前に、兵士たちをまとめることができるのか? 適材適所という言葉があるだろう? ファルトが光なら、俺は闇だ。あいつにはやらせられないことを俺がやればいい。……ウェンリ、お前はお前のできる形で闇になればいい。これからのファルトに必要なのは、お前なんだ」
 シャナイは苦笑した。父王が数日中に死ぬことが、彼にはわかっていた。ファルトが国王となった時、弱音の吐けない兄を支えていけるのはウェンリだけなのだ。
 ……父とは打って変わって、この弟からは死の影が見えない。彼の体調は日増しによくなってきている。
「シャナイ兄さんは……、これからどうするんです……?」
 ウェンリは躊躇いがちに聞く。
「――― 親父に別れを言う。それからは、塔の中に隠るさ。ファルトに生きるように命令されてるからな」
 じゃあな。それだけ言い残すと、シャナイは階段を上っていった。父に、最期の挨拶をしに行くために。……彼自身の理性もどうやら限界が近いようだ。呼吸が乱れる。足取りが重く感じられる。
 王の寝室に辿り着くと、シャナイはまっすぐに父の傍らに立った。
「……親父、ゲシュテットは撃退したぞ。当分奴らは手を出してこないだろ」
 国王はうっすらと開いた目で息子を見た。
「……シャナイ、お前が死神となったか。……歴史は、繰り返されるのだな……」
 国王の手が彼に伸びる。しっかりとその手を握り、弱々しい眼差しを見つめ返した。
「安心しろよ。親父より先には死なない。……契約者は自ら命を絶たない限りは死ぬことができない。……ファルトに生きろって言われたし」
 主の命令は絶対だろ? 冗談めかして言ってみせる。国王の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。安堵の表情だ。
「……ファルトが王となり、お前は影から国を支える守護者となる。ウェンリはファルトに右腕となり、アクメイアには繁栄が訪れることであろう……」
「――― あぁ。だから、安心してろよ」
 そっと手を離す。それじゃあな、と呟いて部屋を出る。……激しく鼓動が鳴る。手が痙攣し、息苦しくなる。もう、自分の体ではないように感じられた。
「……ファルト……、どこにいる……?」
 消え入りそうな声で兄を呼ぶ。ふらつく足をしっかりと踏みしめ、これが最期と言い聞かせる。……執務室までたどり着いた。
 ノックをすると、返事より先にドアが開いた。ファルトは弟が来たことを察知していた。
「――― シャナイ」
 真剣な面もちで彼を中に入れる。シャナイは笑った。
「約束を果たしてくれよ」
 彼はドアのところからは中に入ろうとしなかった。ファルトは視線を落とす。
「……どうしても、無理なのか?」
 兄の歯切れの悪い姿を初めてみた。何を躊躇する? ただ一人の人間を幽閉するだけなのに。二度と会えないわけでも、ましてや死ぬわけでもないのに。
「これでも、精一杯なんだ。今にも狂いだしそうなんだよ。体が血を欲している。……お前が幽閉できないと言うなら、命令を破らざるを得ない。限界なんだよ、本当に」
 手を差し出した。震えを止める力は、既にここにはない。笑っていられるのが不思議なほど、その手の痙攣はひどかった。ファルトはしっかりと頷いた。
「……わかった。行こう、北の塔へ ―――」
 弟の手を握り、彼はうつむいた。顔を上げられなかった。こんな表情はシャナイには見せられない。――― そんな風に思ったのだろう。
「……懐かしいな……。昔は一緒に城の中を探検したな。……こんな風に、手をつないで、さ」
 シャナイは苦笑して、兄に寄りかかるようにして歩き始めた。北の塔へ向かって、重い足音が響いた。もう、思い残すことなどない。
(……アクメイアは、ファルトが何とかしていくだろ。もう、心配することなんかないよな、親父……)
 重い足取りで歩いていくと、後ろから走るような足音が近づいてくる。二人は振り向く。そこには、ウェンリがいた。息を切らし、肩を揺らす弟は真剣な眼差しで二人を見つめていた。
「……ひどいですよ、兄さん。私だけおいて行くつもりですか?」
「――― ウェンリ」
「……三人で行きましょう。北の塔へ」
 ファルトはシャナイの右側をウェンリのためにあける。ウェンリはそっと腕を取り、しっかりと兄を支える。
「……お前も、いつの間にか強くなったよな……」
「シャナイ兄さんが無鉄砲なことばかりするからですよ」
 意地の悪い言い方をして、ウェンリは笑った。
 三人は塔の最上階を目指して歩いていった。麗らかな陽射しが山間に消えていく、燃えるような赤い空の下。ふと窓から見上げると、ひときわ明るい星が瞬いていた。
「――― しばしの別れ、だな」
 ファルトがぼそりと呟いた。シャナイの腕と足には枷がつけられ、鎖で壁と繋がれている。シャナイはふと微笑んだ。
「飯は要らないぞ。それと、あんまりのぞきに来るなよ。いい顔してみせるの、疲れるから」
「相変わらず、馬鹿な奴だ」
 ファルトが悪態をつく。半ば呆れ返ったように苦笑する。ウェンリは手枷のはめられた兄の手を取った。
「……年に一度。シャナイ兄さんの誕生日にだけ、ここに来て近況を聞かせてあげますよ」
「つまらない報告は聞かないからな」
「……心得ました」
 ウェンリは兄から離れる。ファルトがシャナイの前に屈む。言葉は、何もない。
「ファルト。国を頼む。……もしどうにもならなくなったら、俺を呼べ。戦にだったら出て行ってやる」
 シャナイは不敵な笑みを見せる。ファルトは頷くだけであった。そして、彼から離れる。……別れの時が来た。しかし、ファルトは部屋から出られずにいた。本当にこれが正しいのだろうか。そう思わずにはいられなかった。
「――― おい、ファルト」
 不意に声がかかり、彼はハッとして顔を上げる。
「いつまでこんなところに突っ立ってるんだよ。俺はもう疲れたから寝かせろよ。気の利かない奴だな。その固い頭、何とかしろ。嫁も来なくなるぞ」
 憎たらしい言動で、ファルトを叱咤する。その言葉の奥に隠された真意を、今のファルトならば理解できる。彼は笑って部屋を出た。石造りのドアが閉められ、外側から鍵がかけられる。目の高さにある小さな窓から、ファルトの顔が見えた。
「――― お前を呼ばなくてすむように努める。シャナイ、私は ―――」
 ファルトは微かに呟いて、その場をあとにした。ウェンリは何も言わずに微笑みだけを見せて去っていく。シャナイはふと笑みを零した。
(――― 馬鹿な奴だよ、ファルトは)
 最後に呟いた言葉が心の中でこだました。シャナイの目からは一筋だけ、雫が流れた。その言葉を胸にしまったまま、彼は眠った。
 彼を死の力が支配する。凶暴なまでの死の力は、銀の枷によって微弱なまでに抑え込まれていた。シャナイの意識は、その名を呼ばれるまで戻ってこないだろう。
 凱旋の宴でファルトはシャナイの状態を発表した。シャナイの意志で、彼を幽閉した。彼は己の意志でこの国の守護者となった。これからも、シャナイはこの国を守り続けていく。――― 納得のいかない者がたくさんいた。しかし、哀しみを帯びたファルトの眼差しを見た一同は、何も言うことができなかった。……この王子も本意ではなかったことくらい、明白だったからだ。
 そして、その三日後。国王が崩御し、ファルトは王位についた。……シャナイの予想通りであった。
「……シャナイ、父上が亡くなった」
 ファルトは、父の死だけでも報告しようと北の塔へ来ていた。シャナイは眠ったように動かない。ファルトは視線を落とし、踵を返す。
「……聞こえているのなら、冥福くらい祈ってやってくれ」
 そのまま彼は去っていく。――― その声は、確かにシャナイに聞こえていた。あぁ、やっぱり親父は逝ったか。そう思い、扉の窓から入ってくる陽射しに目を向けた。今日から、あいつが国王か。そんな風に考えていると、ちょっとだけ心配になった。
(……時々とんでもなく弱気だからな。愚痴なんか言いに来るんじゃねぇぞ)
 少しだけ、口の端に笑みが浮かんだ。あの時のファルトの言葉は、未だに彼の中で響いていた。
――― シャナイ、私はいつまでもお前を右腕だと思っている。それは、死を迎えるその時まで変わらない……。
 弟ではなく、右腕。血の繋がり以上に強い繋がりを感じていた。それは照れくさくもあり、しかし嬉しかった。
(……親父。一つだけ願いが叶うなら、俺がこの枷をはずす日がこないことを……)
 父親の最後に見たあの安らかな顔を思い浮かべ、彼は祈った。アクメイアに嵐が来ないことを、彼は願い続けた。
 ……何十年、何百年。ファルトが逝き、彼の息子たちがその遺志を継ぎ、アクメイア王国がその歴史を刻み続ける数百年。……そう、数百年。
 死が衰弱し、彼の元から去っていった。……シャナイはその瞬間に魂を解放された。肉体は灰となり、消えた。シャナイの魂は時の国王の元まで行く。
――― 俺の役目もここまでだ。あとのことは任せたぞ、ファルトの志を受け継ぐ我が主よ……。
 ファルトの志は受け継がれていく。……シャナイの、守護者の消えたそのあとも。

終                




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