partita 〜 世界演舞
第二章 孤独を開放する扉(5)
空には暗い雲が広がっている。雨が細い糸のように、すじを残しながら落ちてきた。
「ファラサーンまでは、どのくらいあるのだ?」
シャンレイは馬上のセルリオスに尋ねた。彼は前に乗せたパレッティが濡れないように、マントを被せる。
「そうだな……。あと半日もしないで着くだろう」
あの洞窟を抜けてから、数週間が過ぎている。途中で町などに寄ってはいたが、疲れは確実に積み上げられている。
「……嫌な雨だな」
ソルティは独り言のように呟き、天を仰いだ。良くないことが起こる予感。彼の心は、この空模様と同じであった。シェーンは翼につく水滴を一生懸命に払う。すると、シャンレイがその背からマントを掛けてやった。
「ありがとう」
シェーンは微笑み返した。シャンレイは頷いて応えるが、次の瞬間には険しい表情になった。セルリオスも馬の足を止める。
「……呪術だね」
パズズは面白そうな展開に不敵な笑みを見せた。禍々しい気が漂っている。あらかじめ誰かをはめるために用意してあった罠。……そんな感じがした。
「セルリオス殿、パレッティを頼む。みんな、気を抜くな。術中にはまるぞ」
シャンレイが声をかけた時だった。ソルティが背の大剣を抜き、ミサキに斬りかかった。
「なっ!」
ミサキの反応が追いつかない。避けようとした彼女の左頬を一閃する。
「っ! ミサキ!」
シャンレイはハッとして声をあげた。ミサキの頬からはかなりの量の血が流れている。雨がそれを洗い流そうとするため、足元に真紅が広がっていく。
「ソルティ! どうしちゃったの!?」
シェーンが駆け寄ろうとした。シャンレイがその肩をつかむ。シャンレイはソルティの目を見ていた。虚ろな、放心しているような瞳。それは何も映していない。何も感じていない。
「ミサキ、下がれ! パズズ、術者の位置はわかるか?」
セルリオスは、じっと何かを見つめているパズズに意見を求めた。
「わかんないの? まあ、これだけ邪気が充満していれば、見つけられるのは僕くらいのものだよね」
「御託はいい。何処なんだ?」
セルリオスは焦っていた。このままではソルティがミサキを殺してしまいかねない。しかし、その言葉が気まぐれな黒天使の臍を曲げてしまった。そっぽを向いて、答えようともしない。
「セルリオス殿、落ち着いてくれ! 貴殿ならわかるはずだ!」
シャンレイはそう叫ぶと、ソルティを取り押さえに向かう。セルリオスは我に返った。自嘲の笑みを零す。
(落ち着け、か。その通りだな。……精神操作の魔法と仮定する。地と闇……。術者は……)
セルリオスの目の端に、影が映った。すぐに魔法の詠唱に入る。
「ソルティ! 抵抗するのだ! 魔法に支配されるな!」
シャンレイはソルティを羽交い締めにすると、言い聞かせるように強く言い放つ。しかし、シャンレイがいかに優れた格闘家であっても無敵ではない。ソルティは彼女を跳ね飛ばす。そのまま剣を振り上げるが、その手が痙攣を始めた。その時、セルリオスの呪文が完成した。
『[地牙突昇(ダグラ・ディーオ)]!』
影の周辺の大地が躍動する。錐のように伸びた土が、影を襲う。影は術を何とかかわすと、その場から消え失せた。ソルティに放った術は、その効力をなくしたはずだ。しかし、彼は元に戻らない。
「ソルティ?」
ミサキはその手に触れようとした。すると、彼は苦しそうに顔を向けた。
「……来るな……。俺から離れろ……」
突然、ソルティの腕や足が銀色の体毛に覆われる。
「狼化だ。皆、下がれ!」
セルリオスは叫ぶ。ミサキやシャンレイは、警戒しながら後ろへ下がる。しかし、シェーンだけは離れなかった。
「シェーン!」
シャンレイは慌てて彼女に駆け寄り、その腕を引く。
「待って、シャンレイ。ソルティ、抵抗してるよ」
ソルティは、完全に狼にはなっていなかった。顔も体毛に覆われ、狼のようになっている。しかし、足で立っている。尻尾も耳もない。
(……喰イタイ。 アイツ喰イタイ。腹ヘッタ。アイツ喰ウ。腹イッパイ。オレ満足。喰ウ……)
ライカンスロープの血が沸き立っている。暴走しようと、理性を食い破ろうとしている。
(だめだ……! 出てくるな!)
理性を総動員して、必死に抑制を試みる。その時、声が届いた。
「自分に負けないで、ソルティ!」
「ソルティ、聞こえるか? その人狼たる姿。それは、お前を形づくる一部だ。消そうとするな。共に生きることを考えろ。否定するだけでは何も変わらない」
聞いたことのある声だ。しっかりと届いてくるその声を理解しようと集中をする。
(こいつが、俺の一部……)
(喰ワセロ! 喰ワセロ! 喰ワセロー!!)
どっと押し寄せる狼の意識にぶち当たった。
(これも、俺なのか……?)
受け入れるには、恐ろしすぎる姿だった。ソルティの精神は限界に近かった。
「何時までこんなこと、してるつもりなの?」
退屈そうな子供の声が聞こえ、ソルティは意識を失った。膝を折り、前のめりに倒れ込む。
「……パズズ、 何をした?」
シャンレイはその場に崩れたソルティを抱き起こした。
「ただ眠らせただけだよ。こんなつまんないこと、何時までもつき合ってなんかいられないよ」
パズズはパレッティの肩の上で大あくびをした。それを聞いて、ホッとしたシャンレイは重要なことを思い出した。
「ミサキ! 傷はっ!?」
「あぁ……。かなり深いみてぇだ」
ミサキは苦笑して、流れ出る血を手の甲で拭った。シェーンはシャンレイの荷物から薬や布を取り出し、応急処置をした。
「傷跡、残っちゃうね……」
シェーンは悲しそうに顔を歪めた。すると、ミサキは彼女に笑いかける。
「なぁに、貫禄がついただろ? ……俺は気になんかしねぇよ」
ありがとな、とシェーンに礼を言う。そして、シャンレイの方に顔を向けた。
「今日は野宿だな」
「……そうだな。 雨が凌げる場所があればいいが……」
シャンレイは、よく眠っているソルティを心配そうに見る。 その時、セルリオスがマントを外して馬から降りてきた。
「いや、もうすぐファラサーンだ。先へ行こう」
二人にそう告げると、シャンレイからソルティを受け取って馬上に乗せる。
「パレッティ、マントをソルティに分けてやってくれ」
セルリオスはそう言うと、手綱を持って歩き始めた。シャンレイたちは唖然とした。
「――― 何をしているんだ。早くしないと、日が暮れてしまうぞ」
立ちつくす三人に声をかけると、また足を進める。三人は顔を見合わせると、後を追った。