partita 〜 世界演舞

第三章 忘却の花咲く庭(2)


 ソルティは目が覚めると、自分のいる場所が何処なのかわからなかった。上流階級の屋敷のようだ。心地良い、スプリングの効いたベッド。ぼんやりとしたままの頭で、今まで何をしていたのか回想する。
(……確か、狼化しそうになって……。あ、ミサキを斬りつけた……? ――― 待てよ、何処へ行くって……)
 少し振り返ると、頭の中に一つの言葉が浮かび上がってきた。
――― ならば、ファラサーンへ来ないか?
「!」
 ようやく、ここが何処なのかがわかった。そう思うと、見覚えがなくもない。彼は身を起こした。
(フォートエイル伯の屋敷……)
 手のひらが発汗し始める。鼓動も、一気に早くなる。不意にノック音が響いた。ソルティは思わず身を縮めた。ドアが開き、入ってきたのはセルリオスだった。
「――― 目を覚ましたか」
 いつもと変わらない、冷静な声を投げかける。
「……はい。……俺は一体、どのくらい……」
 ソルティが遠慮がちに質問する。セルリオスはその瞬間、ふと笑った。……笑ったような気がする。ソルティは我が目を疑った。嘲笑ではなかったように思う。
「約一日だ。回復は早いようだな。――― どうかしたか?」
 セルリオスは意外そうな顔をしている彼を、怪訝な顔で見返した。
「いえ、何でもないです。それより、ミサキは……?」
 ソルティの表情は翳った。セルリオスは、呪術にはまっている間も意識を保っていた彼に感心しているようだ。少し、驚いている。
「あの傷は、残ってしまいそうだ」
「そう、ですか……」
 一気に落ち込み、ソルティは溜息をつく。するとセルリオスは笑いを噛み殺して、ソルティの背中を叩いた。
「ミサキを見たら、落ち込む気も失せるぞ」
 ソルティは唖然として、伯爵を見上げた。言っていることも理解できなかったが、それ以上にセルリオスの態度が不可解だ。
「……湯が張ってある。浴室へ行って来い」
 セルリオスはそう言い残すと、部屋を出ていった。
(……一体、どうしたんだ?)
 ソルティは状況を把握できなかった。彼は何もわからないまま、浴室へと向かった。
 入浴後に食事をすると、どうやらもう出発するらしいことを聞いた。ソルティも手ばやに支度を終える。皆に会うと、どうも様子が違う。ミサキはやけに嬉々としており、パレッティもいつも以上にハイテンションだ。
「どうしたんだ、あの二人……」
 ソルティの呟きに、シェーンは楽しそうに説明する。
「ミサキはまた強そうに見えるようになったって、鏡を見て喜んでるの」
「――― それは……複雑な気分だ」
 ソルティは何とも言えない、困った表情を向けた。
「いいのよ。本人が嬉しそうなんだから。パレッティは御両親がいらして、セルリオスとシャンレイの説得で旅の許可が出たの」
 シェーン自身もなんだか嬉しそうだ。シャンレイはいつもと変わりない。心持ち、背負っていた陰が薄らいだような気はする。それぞれが良いコンディションのようだ。
「そろそろ行くぞ」
 シャンレイは皆に声をかけ、館の玄関に向かった。ぞろぞろと庭を出て門まで来ると、シャンレイは唐突に後ろを振り返った。そこには、荷物を持っていないセルリオスがいた。
「セルリオス殿、世話になった。任務に戻られるのだな」
 シャンレイは軽く頭を下げた。全員がセルリオスを振り返る。すると、セルリオスは微かに頷いた。
「あぁ。だが、少ししたら旅に出る。その時……」
 セルリオスは口を濁した。思案するかのように、口元に手をやる。
「あたしも、また会えるような気がするの。だから『また逢いましょう』でいいのよね、伯爵様」
 パレッティが、彼の飲み込んでしまった言葉をかわりに告げる。ふわりと笑う彼女はとてもいい顔をしていた。セルリオスは頷いた。
「そうだな。……それと、パレッティ。[伯爵様]はやめてくれ。[セルリオス]でいい。シャンレイ、お前もだ」
 彼の言葉に、パレッティは大きく返事をした。シャンレイも少しだけ笑みをのぞかせる。そして、セルリオスの視線はソルティに向けられた。
「ソルティ、私は誤解していたようだ。状況を顧みずにひどい仕打ちをしたこと、申し訳なく思っている」
 セルリオスの真剣な態度に、ソルティは戸惑いすら感じた。
「……おそらく、誰もがそうしたと思います。……俺、ライカンスロープですから」
 セルリオスは首を振る。
「いや、その偏見を持たない者たちがここにいる。……その力、己の力で制御できるようになれ。それができた時には、お前をファラサーン騎士団に迎えたい。……そう思っている」
 伯爵は少し笑ってみせた。ソルティは一瞬、自分の耳を疑った。セルリオスを驚きの目で見返す。冗談などではなかった。深々と頭を下げる。
「……ありがとう、ございます」
 セルリオスは目を細めて口端に笑みを浮かべると、シャンレイの方に向き直る。
「私も一応いろいろと調べたが、パズズに関する文献は皆無だ。ワイバーンについても、所在が明らかになっていない」
 その一言にシャンレイはハッとした。これからどうするかをまだ決めていなかった。彼女の表情に、セルリオスは満足そうに頷く。
「そこで、だ。南へ行け。西方中部に、冥神を祀っていた神殿の遺跡がある」
 ミサキがそれに対し、首を傾げた。
「冥神の神殿の遺跡?何でそんなとこへ行くんだ?」
「パズズは冥神の第一級高位体。冥神の使者の中では一番上なんだよ」
 パレッティが得意げに胸を張った。ミサキは思い出したらしく、ポンと手を打った。
「セルリオス殿。実際のところ、何か手掛かりがあると思われるか?」
 シャンレイはその紺色の瞳をまっすぐに向ける。
「……一つ、巨大な石碑がある。そこに書かれている文字が、まったく解読できないままだ。パズズか、あるいはパレッティに解読できれば、可能性は無ではない」
 セルリオスの答えに、シャンレイは頭を下げた。
「ありがとう。本当に何から何まで世話になった。――― いつか、この恩返しをせねばなるまい」
「気にするほどのことではない」
 セルリオスは苦笑した。それを見て、微かに笑みを浮かべたシャンレイは踵を返す。それに倣うように皆は別れを告げ、南へと向かった。
――― ……ごめんなさい。ごめんなさい……
 ふと誰かの声がした。シャンレイはハッとして、周囲を見回した。哀しそうなその声は聞いたことがある、懐かしいものだ。
(誰なんだ……?)
 誰の声かはわからない。ただ、どこか温かい声だった。しかし、周りにはそんな哀しい表情の人はいない。
「シャンレイ? どうかしたの?」
 シェーンは、突然立ち止まって辺りを見回しているシャンレイに首を傾げた。彼女はこの武闘家の態度に、ひどく敏感になっていた。心配そうな瞳を向けている。シャンレイは何でもない、と首を軽く振る。そして、また歩き始めた。



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