partita 〜 世界演舞

第五章 楔の抜き取られた門(2)


 遺跡の地下。大きな黒塗りの扉がそびえていた。まるで誰かが先へ行くのを拒むかのような巨大さである。力押しで開くはずもなく、一行はそこに立ち止まっていた。
「おかしいですね。さっきまでは開いていたんですけど……」
 バルドは眉間にしわを寄せて扉を見つめた。この先へ行こうとする者たちの意志を察知したのだろうか。先に広がる闇を、彼はちゃんと両の目で確認したはずなのに。
「――― どっから沸いて出てきたんだよ。俺たちに対する妨害か?」
 ミサキはご自慢の怪力でもびくともしない扉を蹴飛ばした。
「物に当たるな、ミサキ」
 シャンレイの言葉は冷静だった。しかし、その目はミサキをとらえていない。扉の上部を見つめている。
「どうしたんだよ、シャンレイ。さっきから上ばっかり見て」
 ソルティは彼女の視線の先を見た。扉の上の方。何もおかしな所はない。
「……妙に引っかかる。何かおかしい。……パレッティ、ちょっと見てくれないか」
 シャンレイは有無を言わさずパレッティを抱え上げ、肩車をした。パレッティはびっくりしてシャンレイを見る。
「どっ、どうしたの?何があるの?」
「わからない。パレッティ、その扉の右の縁を見てくれ。どうも違和感を感じるのだ」
 シャンレイの言葉に、パレッティは顔を上げた。シャンレイの上にいるため、ミサキ取りも高い位置に頭がある。天井にぶつかりそうなくらいだ。少女は身を乗り出して観察する。パズズもその近くまで飛んでいく。
「……あ、パズズ。これって何かの呪文?」
 パレッティはシャンレイの言う「違和感を感じるところ」にぼんやりとした文字を発見した。
「なに言ってるんだよ、読めばわかるでしょ?」
 パズズは呆れたように溜息をついた。
『汝、二つの心を抱きし者よ。其は我の眼差しとならん』
 古代神秘語の、古い形式で書かれた文であった。パレッティは何のことだろう、と首を傾げる。すると、パチッと何かが弾ける音がした。
「……な、何?」
 シェーンは不安そうに辺りを見回した。
「いえ、今の音は扉にかけられた術が解けた音でしょう」
 メルシアーナがニコリと微笑む。半信半疑のバルドが、扉を向こう側に押してみた。ズズズッと低く唸りながら、扉は徐々に開いていった。
「――― 開きましたね」
 ウェナーも驚いているのだろうか。表情からは伺い知ることができなかったが、その言葉には微妙な間があった。シャンレイは皆を見て頷く。
「よし、行こう」
 その言葉に、メルシアーナのブレスレットが中へ入っていく。続いてシャンレイ、バルド、ウェナー、メルシアーナ、シェーン、パレッティとパズズ、ソルティ、ミサキと順々に入っていった。扉の内側は、先程までの質素な作りとはうって変わって優美な彫刻が施されていた。薄暗い中でも、その美しさは殺されていない。むしろ、その暗さが余計に美しくしているようでもあった。
「……二神降臨期の作品かなぁ。ゴテゴテしてなくって、繊細だよね。それに、主題がなさそうだし」
 パレッティは壁をしばらく見つめ、そう零した。すると、メルシアーナが彼女の隣に立った。
「そうですね、二神降臨期の中頃でしょうか。[無主題芸術]が盛んになった頃のものでしょうね」
 さあ、先を急ぎましょう。聖女はそう告げて、パレッティの小さな頭を優しく撫でた。柔らかくて温かい手は、母のそれによく似ていた。パレッティは不思議な気分で彼女を見上げていた。
「……空気の揺らぎが少ないな。先にもやはり扉があるかもしれないな」
 シャンレイはそう呟くと歩いていく。皆がぞろぞろと続いていった。少し歩くと、シャンレイの予想通り先程と同じような扉があった。やはり押しても引いても開かない。メルシアーナが取っ手のそばを指さした。
「そこに、文字のようなものが見えますよ」
 パレッティが扉に近づき、その文字を読む。
『……嵐来たれり。其はすべての束縛を解き放つもの。嘆きの雨は渇きを潤し、大河とならん』
 扉の鍵が外れる音がした。何故、このような言葉が鍵になっているのだろうか。何か深い意味があるのかもしれない。パレッティはその二つの文を頭の中に刻み込んだ。バルドが扉を押し開けた。すると、どこか神聖な感じのするオーラが迫ってくる。双肩にかかる圧迫感。ひんやりとした空気。広々とした部屋の中心に、柱のような石碑が建っていた。ゆうに人の三倍近くはあろうかという大きさだ。
「……で、でけぇ……」
 ミサキは思わず言葉を洩らした。その言葉は、何故か反響しない。おそらく、入り口付近で話している声など、石碑の辺りでは聞こえないのではないだろうか。漆黒の石碑には、ずらっと見たことのない文字が並んでいた。パレッティはそれに近づき、手で触れてみる。
「……パズズ、学者さんたち、誰も気がつかなかったのかな?」
 頭の上で欠伸をする使者殿に声をかけた。
「そうなんじゃないの? だって、解除した形跡はないもん」
「……じゃ、早速やろうよ。パズズ、手伝って」
 パレッティは何となく腕まくりをした。パズズも仕方なさそうに少女の頭から離れる。
『真なる深き漆黒よ、我が命を聞け。汝、来るは天の月。汝、還るは御方の内。我が名は闇にて和を成す者。我を守護せし者パズズの力を受け、汝に命ず。彼の地より来たりし者よ、汝の在りし場所へ還れ』
 パレッティが突き出した両手の前に、歪んだ空間が出来上がる。パズズは石碑に向かって闇を放つ。その闇は石碑を覆い尽くすと、歪んだ空間に吸い込まれていった。すると、石碑に並ぶ文字の一部が光り出した。
「これで解除はできたね。よおしっ、やるよ!」
 パレッティは召喚術によって風の精霊の長、シューリアを召喚した。シューリアの力で宙に浮いた彼女は、大きな石碑に書かれた文字を羊皮紙に写し取っていく。すべての文字を書くと、シューリアを還す。そして、謎の文字と向き合った。
「……古代神秘語のアナグラムみたいな文章だね」
「ま、そんなところだね。古代神秘語っていうのは、もともと神の使っていた文字の簡略版みたいなものだって言ってたし」
 パズズはパレッティの方に戻ってくると、一緒に文字を眺める。
「言ってたって、冥神様が?」
「まあね」
 曖昧な返事をし、二人の会話はそこで途切れた。パレッティは集中し始めた。おそらく周りのことなど、見えも聞こえもしなくなっている。パズズは皆の方を見た。
「――― パレッティはトランス状態に入ったし、時間かかるから適当に何かしててよ」
 パズズにしては、気の利いた一言だった。その言葉に、すかさず行動に出たのはシェーンだった。彼女はメルシアーナに声をかけた。
「ねぇ、メルシアーナ。あたしに神術を教えて」
「神術を? それは構いませんが、突然どうしたんです?」
 メルシアーナはいつになく思い詰めた表情をしている少女に優しく返した。
「あたし……、あたしね、みんなの足手まといになりたくないの。もう、自分だけ何にもできないのは嫌なの。それに、みんなを助けられるのって、やっぱり神術だと思うの」
 傷つきやすい心と、仲間を思う優しさを持った少女。メルシアーナはそっと彼女に微笑みかけた。
「わかりました。少しずつ、教えますね」
 その一言で、シェーンの表情はパッと花が咲いたように明るくなった。一方、ミサキはシャンレイに声をかけていた。
「体調はもういいんだな?」
「――― おかげさまで、な」
 シャンレイはしっかりと頷いた。
「じゃあ、その、何だ。アドバイスしてくれないか? 俺の戦い方に、さ」
 彼女にしては珍しく歯切れの悪い言い方だった。ミサキは生まれてこの方、剣に関しては誰にも習ったことはない。純粋な我流だ。それでも腕には自信があったし、誰にも負けないと信じていた。しかし、その自信はこの目の前にいる女性によって打ち砕かれてしまっていた。
「……どういう心境の変化だ? 私に教えを請うとは。私は刀の使い手ではないぞ」
 苦笑するシャンレイ。意地の悪い言い方だが、嫌な感じはしない。
「……戦術みたいなのを教えて欲しいんだ。俺、腕力に頼った戦い方しかできねぇから」
 ミサキも情けない笑い方をした。シャンレイはふと笑みを見せると、軽く頷いた。
「わかった。――― ソルティ、少し稽古に付き合わないか?」
 ボーっと辺りを見回していたソルティは、自分を呼ぶ声にハッとなった。
「――― あ? あ、あぁ。別に構わないけど」
 彼はそう言うと、こちらに向かってきた。シャンレイはよし、と呟いて二人を見た。ニコリと微笑む。
「さて、始めようか。二人とも、抜いてくれ」
 彼女の言葉に、二人は唖然とした。何を言われたのか、瞬時には理解できなかった。まじまじとシャンレイを見つめる。
「……って、まさか、実践あるのみ?」
 ソルティの度肝を抜かれたような顔に、シャンレイは満足げに頷いてみせる。ミサキもさすがにそんなことを言われるとは思っていなかった。
「マジかよ……」
「……本気だ。私が一方に指示を出す。簡単なことだ。もう一方は自分なりに戦うんだ。一本取った方の勝ち。まずはミサキに指示を出す。いいな?」
 シャンレイはそう言うと、ミサキに耳元で考えていた作戦を話す。ミサキは目をまるくして彼女を見返した。
「……それだけでいいのかよ?」
「あぁ。ソルティから一本取るなら、それだけで充分だ」
「――― 言ってくれるな」
 柔らかい口調ではあったが、シャンレイの言葉はソルティを挑発するには十分だった。ミサキはソルティと向かい合うと、中段に構える。
「さて、おっぱじめるか!」
 その声に、ソルティも構える。シャンレイは二人が体勢を整えたのを確認し、声をあげる。
「始めっ!」
 その声と同時に、向かっていったのはミサキの方だった。気合いと共に駆け出し、まずは上から振り下ろす。ソルティはそれを無造作に受け流し、胴を一閃する。しかし、それはミサキもなんとかかわすことができた。
「あぶねぇ。ギリギリだったな」
 呼吸を整えると、今度はソルティが踏み込んできた。振り下ろされる剣は風を切るかのように素早い。ミサキは何とか受け止め、彼を腕力で弾き返す。しかし、そこでバランスを崩すようなソルティではない。踏み止まると、その反動を利用してもう一撃が来る。ミサキは紙一重のところでかわす。軽く舌打ちすると、今度はミサキの突きが繰り出される。ソルティはそれをかわし、上段に思い切って打ち込む。
(―――! これか!?)
 ミサキは瞬時にシャンレイの言葉を思い出した。グレートソードを刀で受け流した瞬間に、右膝が飛んだ。
「!!」
 ソルティが反応する間もなく、懐に入ったミサキの膝はソルティの鳩尾のところで寸止めされていた。ソルティの頬を一筋の汗が伝う。
「……へへへっ、俺の勝ち」
 ミサキはニヤリと笑って見せた。
「それまで。いいタイミングだったな、ミサキ。ソルティは予想外の行動に対して反応が遅くなる。よもやミサキが蹴りを使うとは思わなかっただろう?」
 シャンレイが解説する。ソルティは低く唸り声をあげた。
「してやられたな」
「どうだ、冷や汗モンだっただろ?」
 ミサキはニヤニヤして彼の顔をのぞき込む。
「ミサキが勝ったのは、シャンレイのアドバイスがあったからだろうが」
 ギロリと鋭い目で睨む。ミサキも渇いた笑いをして誤魔化した。
「ま、まぁそうだな」
「それとソルティ。お前は挑発に乗りやすい。ミサキもそうだが、私の一言に熱くならなかったか?」
「……あ」
 ソルティは思わず声に出してしまった。シャンレイの最初の言葉。――― ソルティから一本取るなら、それだけで充分だ。……その言葉に、彼はカッとなっていた事実に気がついた。
「そう、あれは単なる挑発だ。ミサキが有利に運ぶ状況を作ってみたんだが。……さて、種明かしをしたところで交代だな。今度はソルティに指示をする」
 シャンレイは軽く笑みを見せ、ソルティに耳打ちする。ソルティは訝しげに彼女を見た。
「おいおい、そんな手でいいのか?」
 シャンレイは頷く。
「ミサキの癖はこれでも熟知している。一番の弱点はこれだ」
 ソルティは肩をすくめ、ミサキの前に立った。剣を構えると、その表情は一転する。真剣な、鋭い眼差しとなる。
「……おっし。やるぜ」
 ミサキも構えを取る。いささかソルティの気迫に押されている。
「始め!」
 シャンレイの合図があっても、二人は動かなかった。ソルティは切っ先の向こうのミサキを見つめたまま動かない。
「……どこからでも来いよ」
 ソルティの低く発せられた声に、ミサキは舌打ちした。
「しゃらくせぇ! 小細工は抜きだ!」
 ミサキは気合いと共に間合いに入り、肩口を狙って剣を振り下ろす。ソルティは完全に見切っているようで、横へワンステップした。そしてそのまま頭に向かって薙ぎ払いが来る。ミサキは鳥肌の立つような悪寒に襲われ、それを刀で流して力をそいだ。
「……ったく、あぶねぇことしやがるな」
 ミサキは袈裟懸けに刃を振り下ろす。ソルティは反応が追いつかなかったのか、ギリギリのところで受け止める。表情に焦りが浮かぶ。
「へっ、どうしたよ。いつものお前らしくないぜ?」
 ミサキは交差させた刃を押し返す。力押しではミサキが有利になっている。ソルティは舌打ちをして剣をひく。後方へ飛び退くと、構え直す。ミサキはニヤリと勝利を確信した笑みを浮かべた。
(……さて、指示通りだな。後は崩すだけだな)
 ソルティは間合いを一気に縮めると、思い切り剣を振り下ろす。ミサキは咄嗟にそれを受けるが、その一撃は思いのほか軽かった。
「……!?」
 その時、やっとその意味を理解した。ソルティは彼女の視界から消えていた。ハッとして振り向いた時、彼女の目の前に剣先が現れた。
「……勝負、ありだな」
 ソルティはニヤリと笑った。完全にフェイントだった。先程の一撃の後、彼は素早く右に回り込んで次の一撃を用意していたのだ。
「一本だ。ミサキ、お前の最大の弱点は調子に乗ると隙だらけになることだ。慢心のせいで、ちょっとしたフェイントにも気付かなくなる。わかったか?」
 シャンレイは冷静な声でそう告げる。ミサキは大きく溜息をついた。
「……ごもっとも」
「それに、最初からミサキに勝たせたのも、隙を作る一つの仕掛けだったのだ」
 シャンレイは意地の悪い笑い方をした。
「――― 策士だな、お前さん」
 ミサキも諦め顔で肩をがっくりと落とした。シャンレイはふと優しい表情に戻ると、今度はソルティに言う。
「ソルティは腕力と共に、反射神経にも優れている。一撃目をフェイントに思わせないこともできるだろう。それは強力な武器になる。うまく使うといい」
 そして彼女は軽く手首や足首を回し始めた。
「ちょ、ちょっと待て。まさかシャンレイ……」
 ソルティは驚いて、彼女を見つめる。
「そのまさかだ。真打ち登場だな。二人がかりでいいぞ。二人で戦略でも立ててみろ」
 準備運動をしながら、さらりとそんなことを言う。彼女はつい数時間前まで生死の淵を彷徨っていた怪我人だ。それを相手に、しかも二人がかりでなんてできるはずがない。
「おい、シャンレイ。お前、体はいいのか? まだ完全じゃないだろうが」
 ミサキが諫めるように言う。するとシャンレイは挑戦的な顔を見せた。
「心配無用。私の身体は回復が早い。メルシアーナの尽力もあるがな。それに死地を乗り越えてきた数だけならば、ミサキやソルティには負けないと思うぞ」
 彼女の行ってきた修行は半端なものではない。それこそ、命を削る思いもしてきただろう。その言葉には、異様な説得力があった。
「ったく、聞きゃあしねぇんだ。やるぜ。手は抜かねぇからな」
 ミサキは悪態をついて肩をすくめた。ソルティも仕方ないといった風に、吐息をもらす。
「……相手はシャンレイか。ミサキ、小細工は通用しないかもしれないぞ。あいつは俺たちの強みも弱みも熟知している。敵に回すと、とんでもなく厄介だな」
 彼はグレートソードを構えた。ミサキも刀を中段に固定する。それを確認したシャンレイは大きく深呼吸した。気合いが彼女の中にみなぎる。彼女の発する強いオーラは、空気の振動で二人も肌で感じていた。
(こいつが敵になるなんて、考えてもみなかったな……、そういえば)
 今更ながら、目の前の格闘家の恐ろしさを痛感していた。ミサキは苦笑して、ちらりと人狼に目をやる。
「……同時に行くか?」
 その言葉にソルティは視線で肯定した。
「――― 来い!」
 シャンレイの言葉と同時に、二人は左右から走り込む。右からはソルティ。左からはミサキ。ソルティは剣を頭上から振り下ろし、ミサキは胴を薙ぐ。シャンレイの腕は瞬時に動いた。右手は掌底でグレートソードの側面を叩き、軌道を変える。
左腕は風を纏い、手の甲で刀を止める。空気が瞬間的に止まる。ヒュッという小さな呼吸音がすると、シャンレイは刀の背をたたき落とす。それと同時に左足が宙を舞う。そのまま蹴りがソルティの横面を捕らえる。
「―――!」
 シャンレイの回し蹴りは彼の頬を軽くかすめた。ソルティは舌打ちすると、体勢を低くして足を薙ぎ払う。しかし、シャンレイは軽く地を蹴り、剣を踏みつける。続いてミサキが袈裟懸けに斬りかかる。シャンレイは紙一重でそれをかわすと、ミサキの方に手をかけて背後に飛ぶ。そしてそこから手刀を繰り出す。
「っ!」
 首の後ろを軽く叩く。ミサキは振り向きざまに首を狙う。しかし、シャンレイは左腕一本で止めてしまう。そこにソルティが回り込んで、頭に斬りかかる。シャンレイはミサキを押し返すと、身を屈めてそれをやり過ごす。そしてソルティの懐に入り込む。
「破っ!」
 上腹部に軽く肘打ちを入れる。ミサキが体勢を立て直し、背後から刀を振り下ろす。シャンレイは素早く腕を交差させ、その一撃を受け止める。そのままひねりを加え、ミサキの体勢を崩したところで二の腕に蹴りを加える。
「って……!」
 ミサキは腕にしびれを覚え、思わず刀を手放してしまった。ソルティは間を置かずに剣を振り上げる。シャンレイはそれを察知し、自分の間合いに入る。そして裏拳を脇にたたき込んだ。すると、あまりの衝撃にソルティは腕をそのまま降ろしてしまった。腕が痺れている。
「……どうした? 力が入っていないぞ」
 シャンレイはソルティの剣を抑えつけた。勝負あった。完全にシャンレイの勝ちだ。ミサキとソルティはうなだれた。
「全然歯が立たねぇじゃねぇかよ」
 ミサキはぼそぼそと愚痴を言う。
「それは、二人が『怪我人相手に』戦っているからだ。自ずと手加減してしまったのだろう」
 シャンレイは苦笑して答える。ソルティは手を握ったり広げたりして、痺れたその手の感覚を確かめる。
「――― とか何とか言いながら、シャンレイだって手加減してたじゃないか。急所狙ってただろ? 本気でやったら、俺は三回死んでたぜ」
 ワシワシと髪を掻き乱す。相当悔しいのだろう。彼は拳をギュッと、強く握りしめた。シャンレイは困ったように眉を下げる。
「それはお互い様だな。……そうだな、詰めが甘いのだ。ソルティもミサキも、私の予想の範疇で攻撃してきている。互いによく知っているんだ。自分のやり方を変えなければ勝てない」
「……考えてみれば俺、シャンレイの攻撃パターンってよく知らねぇ。横でいっつも戦ってんのに、そんなこと考えたことねぇや」
 ミサキは反省して視線を落とす。
「それに、始めの手合わせで忠告したことが活かされていない。最初の一撃の後、あそこでミサキに足払いでもくらわされていたら私の負けだったな。ソルティだってフェイントを使えば、自分の有利な状況にできたはずだ」
 シャンレイの言うことはもっともだった。二人には、戦略を考えるほどの余裕がなかった。それはシャンレイが強いからということではなく、彼女が怪我をしていることをひどく気にしていたからだった。
「……手負いの獣は危険だろう? 限界以上の力を出しかねない。手加減なんてできないのだから。だからこそ、気を抜いてはならないのだよ」
 シャンレイは苦笑した。彼女の言う「手負いの獣」。それはあの時の彼女自身のことかもしれない。――― ソルティはそんな風に思ってしまい、その場で笑うことができなかった。その時、パレッティがふと石碑を見上げた。
「……ねぇ、メルシアーナ。光を消してくれる? もしかしたら、光が邪魔なのかもしれない」
 シェーンに神術の初歩を教えていたメルシアーナは、その声に振り向いた。
「わかりました。でも、手元が暗くなりませんか?」
「いいの。もしかしたらこの石碑、暗くないと読めないのかもしれないから」
 パレッティの表情は、いつもの豊かさをなくした学者の顔になっていた。これがパズズの言うところの「トランス」状態である。メルシアーナは周りの皆に目を向けた。シャンレイたちは既に手合わせを終えており、問題はなさそうだ。しきりに石碑を観察し続けるウェナーと、何かを彫っているバルドだけがこちらのことに気付いていないようだった。
「ウェナー、バルド。一度明かりを消しますよ」
 メルシアーナの穏やかな声が耳に届いたようだ。ウェナーは石碑から少し離れ、バルドはその手を止めた。メルシアーナが集中すると、ブレスレットが彼女の手元に戻り、その光を消した。深い闇が一瞬にしてすべてを包み込む。すると、石碑の光っていた文字が消え、一部分だけが赤い微弱な輝きを浮かび上がらせた。
「……この膨大な量の文字の中で、冥神様が伝えたかったのはこの部分だけなんだね」
 パレッティは石碑に近づき、その文字を指でなぞる。そして、素早く全文を書き写した。
「……」
 パズズは驚きを隠せないようであった。彼も、その事にはちっとも気がついていなかった。改めて、自分の主人の恐ろしさを知った。
「……ここですることはもうないよ。村に戻ろうよ」
 パレッティがいつものように微笑んだ。どうやら、いつもの天真爛漫な彼女に戻ったようだ。シャンレイはしっかりと頷いた。
「わかった。では、戻るとしようか」



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