partita 〜 世界演舞
第六章 汝を守るための剣(9)
一方、エルディスに連れられて衣装部屋に通されたシェーンは驚いていた。
「すっごぉい! こんなにいろんな服があるんだ!」
部屋には数えきれないほどのドレスがあった。
「トラブルがあった時のためですよ。どこの王宮にもこのくらいはあると思いますよ」
エルディスはそう言って微笑んだ。
「でも、お城の人たちは、私の羽根を見ても驚かないんだね。みんなと同じように接してくれる」
シェーンは彼を振り返って微笑みを見せた。誰だって必ず悪気はなくてもこの翼に目を向けてしまう。それは当然のことなのかもしれないと、彼女は感じ続けてきた。
「この国には不思議な人物がたくさんいますから。足が鳥のような鈎爪になっている者だっているんですよ。ここではどんな姿格好でも関係ありません。むしろ、一般的な人の方が少ないかもしれませんよ」
エルディスは衣装を物色しながら呟いた。するとシェーンはふと彼の顔を見上げ、真剣な目をした。
「……嘘、なんだよね。さっきの」
「――― え?」
トーンを下げて、シェーンは呟いた。いきなり降りかかってきた言葉。エルディスには何のことだかさっぱりわからない。彼女の方に目を向けた。
「……お兄さん。ケヴィンさん、だったっけ。すぐによくなるって、本当は違うんでしょ?」
少女の言葉に、エルディスは答えを言えなかった。誰にも気づかれないようにしていたが、シェーンには隠せなかったようだった。
「……忘れて。今言ったこと。困らせたかったわけじゃないの」
聞かなかった方がよかったのかもしれない。彼女はそう思って苦笑してそう返した。
「――― いえ。でも、嘘を言ったわけではないんですよ。兄はすぐに治ります。……もっとも、彼自身が治るつもりがあるなら、の話ですが」
エルディスは苦笑した。シェーンはどうしたらいいかわからなかった。どんな言葉も陳腐に思えてきて、口を噤んでしまった。エルディスは一着の衣装を手に取る。
「……兄はこのまま死んでいくことを望んでいるのだと思います。私にできることは一つ。兄を死なせないことだけです」
彼が引き出した衣装は、紫の舞姫の衣装だった。紫という色が象徴するもの。それは夜であり、闇である。彼がその衣装を出した意味を、シェーンは理解した。紫の衣装を着て踊る舞ははたった一つだけ。冥神に祈りを捧げる舞。それは再生を示す「闇よりの帰還」というものだった。
「わかったわ、エルディス。私も一生懸命踊るわ。ケヴィンさんのために。……ううん、エルディスとグレイスのために」
シェーンはエルディスの手から衣装を受け取り、最高の微笑みを見せた。エルディスは、この娘が有翼族である以前に人の目を惹きつける理由がわかった気がした。するとメイドたちがやってきて、シェーンを奥の方へ促していった。
「とびっきり素敵な舞を期待していますよ」
エルディスはそれだけ言うと部屋をあとにした。後ろ手にドアを閉め、エルディスは溜息をついた。
(……私は、何を望んでいるのでしょうね……)
負の感情の塊のようなもう一人の自分。紛れもなく自分自身である彼は、本当はどうしたかったのだろうか。唯一、幼い頃から笑顔で接してくれた兄。彼を苦しませたいとは、一時も思ったことはない。
(……あの時の私は、自分の愛情を曲がった形でしか表現できなかったのかもしれませんね……)
兄を反逆の徒であるとしたくない想い。そして、兄が何を望んでいるのかを知っていた自分。――― その結果、もう一人のエルディスは自我を喪失させたのかもしれない。
(――― 心を鬼にすることは、私にはできませんでした……)
暴走していく自分を止めてほしい。それがケヴィンの願いだ。死霊術に手を染めた瞬間から、彼は狂いだしていたのだろう。王弟殿下の紋章の入ったナイフ。あれをつかんだ瞬間、彼は気づいた。幻術に心を捕らわれて、手を血に染めるしかなくなっているケヴィン。その心が自分の居場所を知らしめるかのようにサインを送っていた。
(……すいません、兄さん)
* * *
宴は始まった。たくさんの料理と優雅な演奏。そして、メインイベントともいうべき、エルディスのリュートとシェーンの舞。「闇よりの帰還」という舞だとは誰も知らなかったが、ここにいるすべての者に何か訴えかけるような舞だった。もの悲しいリュートの音に合わせて静かに、そして繊細に舞うシェーンはすべての視線を独占した。それが終わると、盛大な拍手が湧いた。
「――― グレイス……?」
ふと、セルリオスは隣に立っていたグレイスに目を向けた。彼女は何も言わず、シェーンたちの方を見たまま涙を流していた。
「……わからないわ。何故だか、自然に出てきてしまったみたい」
グレイスは指先でそれを拭う。そして可笑しそうに笑った。セルリオスはふと微笑むと彼女の頭を軽く叩いた。
「……心に響くものだった。二人の心の現れなのだろう。あの二人は、グレイスと同じ感情を抱えていたのかもしれないな」
すると注目を集めた二人の演奏に変わって、宮廷楽師たちの演奏が始まる。人々は輪になり、ダンスに興じる。そして、その中からエルディスが出てきた。こちらに向かってくる。
「……他の皆は?」
見当たらない二人を捜す。
「ミサキなら向こうで食事をしている。ウェナーもそれについていった」
セルリオスの答えに、そうですかと呟く。
「……グレイス、本当にお疲れさまでした。任務達成、ご苦労様」
エルディスは少しだけ笑った。何故だかその顔が哀しそうに見えて、グレイスは戸惑った。緑色の、豊かさを象徴する色の礼服。エルディスによく似合っていたが、今日だけは違和感があった。
「……ありがとう。でも、素直には喜べないわ」
まだ割り切れないのだ、という気持ちが窺える。
「――― 無理をする必要はありません。気持ちを整理することはそう簡単ではないはずですから」
エルディスは肩をポンポンと叩いた。
「エルディスの方が無理しているみたいよ? あなたこそ悩みすぎない方がいいわ。禿げるわよ」
突然そんなことを言うものだから、エルディスは面食らった顔になる。セルリオスも驚きの目で彼女を見た。
「それは少々きついご意見だな」
「大丈夫ですよ、それは。私は多分禿げませんよ」
エルディスはいよいよ可笑しくなって声を立てて笑い始めた。グレイスもその顔を見たら、なんだか気持ちが楽になった気がした。そして、思わずバルコニーの方に目を向けた。アリア姫はそこにいる。宴が始まってから、ずっとそこを離れない。
「……姫、ですか?」
エルディスはグレイスの視線を辿って、そう尋ねた。
「えぇ。まだ、シャンレイが現れていないみたいなの……」
グレイスは苦笑した。セルリオスもどこか難しい表情になっている。事情がわからないエルディスは首を傾げた。
「シャンレイとアリア姫、何かあったんですか?」
「……姫が失恋したのよ。でも、シャンレイが女性だって信じようとしないの。それで陛下が彼女に頼み事を……」
グレイスがそう言っている時、シャンレイが会場に現れた。どうやら礼服を着せられていたようだ。白地に蒼の縁取りがされた礼服。クリストリコの騎士のものだ。紺色のマントを羽織り、珍しく髪を下ろしている。なるべく目立たないようにしているのか、ホールの壁沿いを音も立てずに歩いている。現に皆はダンスや食事に夢中になっているようで気がついていない。
「……私たちが干渉することではないわ。少しは楽しみましょう。ほら、シェーンも戻ってきたわ」
グレイスが目を向けた方には、ドレスに着替えたシェーンがキョロキョロしていた。
「久しぶりにダンスでもしましょうか、お嬢さん?」
エルディスがふざけたように言って、手を差し出した。グレイスはちょっと困った顔になる。
「私、礼服よ?」
確かに彼女の着ている服は近衛騎士の正装だ。華やかさよりも機能性を重視した簡素なものだ。
「関係ないでしょう? あなたは誇りある礼服を着ているのだから」
エルディスは微笑む。彼女は負けたわ、と呟いてその手を取った。輪の中に入っていく。セルリオスはそんな二人を見送り、シェーンと合流した。すぐさま輪の中に引きずり込まれたことは言うまでもないだろう。
一方、バルコニーでアリアは溜息をついて夜空を見上げていた。空気の冷たさなどどうでもいい。そんな気分で小さな星々を眺めていた。
「――― あの日も、こんな感じでしたね」
背後から急に声がかかり、ハッとしてアリアは振り返った。微笑んでいるのは、今はあまり見たくない顔だった。思わず視線を逸らしてしまう。
「こんなところにいたら、風邪を引きますよ」
少々困った顔になりながらも、シャンレイは姫の隣へ行く。そして片手でマントを広げ、アリアの肩を包み込む。
「……どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
うつむいたまま尋ねる。シャンレイはその問いにはちゃんと答えることができなかった。
「私は、優しくなどないですよ」
シャンレイも空を見上げた。何もかもを吸い込んでしまうような暗い空。瞬く星の小ささが心許ない。シャンレイは空を見上げながら腰を落とす。そしてアリアと同じ目線になると、彼女の目を手で覆った。
「な、何っ……?」
驚いて声をあげる姫君に、シャンレイは小さな声で告げる。
「たった今、姫に魔法をかけました。今宵は宴。夢と現の境界線。あなたは身分も何もわからない女性。私はたまたまそこに居合わせた騎士。……一夜限りの魔法です。日が昇るまで、私の魔法にかかったつもりでいて下さい」
そして、そっと手を離す。アリアは思わずシャンレイを見た。シャンレイは少し微笑むと、目の前に手を差し出した。
「私と一曲、御一緒願えませんか?」
ホールから流れてくる、美しい旋律。アリアは一度目を伏せると、戸惑いながらその手を取った。
「わかりました。行きましょう、騎士様」
アリアは本当にその魔法にかかったような気分だった。そんな魔法があるはずがない。しかし、その魔法にかかりたい自分がいた。今夜だけは、何もかも忘れて。日が昇るまでこの騎士と楽しもう。――― シャンレイの言葉は幻惑の魔術のようだった。ふたりはホールの輪の中に入っていく。ひときわ美しい姫君と、見たことのない騎士。彼女たちは皆の目を一瞬にして釘付けにした。
「――― どういうことです、これは……?」
エルディスが呆気に取られていると、グレイスはふと微笑んだ。……あの時、ケネフ一世はシャンレイに頼み事をした。ただ一つだけ。
――― ほんの少しでいい。あの子に、楽しい思い出を作ってやってくれ。貴殿との出会いが哀しいものでないと思えるように……。
シャンレイは快く承諾した。そして、彼女は告げた。明日には旅立ちたいと思う、と。彼女たちを待っている者がいること。そして、アリア姫がすぐに未来を見つめることができるように。その二つの理由に、誰も文句を言う者はいなかった。
「……思い出よ。あの時は楽しかったという、大切な思い出」
グレイスは笑った。エルディスには何のことだかわからなかった。しかし、アリア姫もシャンレイも楽しそうだった。彼はそれ以上言及しなかった。