白の死神

        (2)

 翌日。シャナイは街に出た。ファルトは将軍たちと軍事会議を開いている。本土の守護のために残った将軍たちは、いてもたってもいられないようでやたらと怒鳴っていた。
 城内の空気がよろしくない。そう感じて、シャナイは街の子供たちのもとへ向かったのだった。
 皆、彼が王子だということは知っている。気さくに声をかけられ、彼もまた笑顔を返す。たったそれだけでも、民衆は安堵感を得ることができた。少し離れたところでは戦争が行われている。それだけで街の空気が張りつめてしまう。それを和らげてしまうだけの効果が、シャナイの笑顔にはあるようだった。
「シャナイ様だ! シャナイ様! 遊ぼう!」
 子供たちは彼を見つけるなりわっと押し寄せてきて、大きな輪を作る。通行人の邪魔であった。シャナイは苦笑すると、皆を広場に誘導した。
「わかったから、もっと広いとこに行こうな」
 よし、広場まで競争! ……シャナイはそう言って駆け出した。それに続くように子供たちは走っていった。広場まで来ると、子供たちは息も切れ切れだった。シャナイはそんな子供たちを見て笑っていた。すると、ひとりの子供が口を開いた。
「シャナイ様。シャナイ様は戦争に行ったりしないよね?」
 思いがけない一言だった。皆の目が彼に集まる。
「……戦争か。まぁ、俺にはやることあるし、当分は行かないと思うな」
 シャナイは苦笑した。すると、頭のいい少女がピクリと反応して、おそるおそる口を開いた。
「……いつかは、行っちゃうの……?」
 彼は困った顔になった。おそらく、王族だからといって戦場に出ないということはないだろう。今のこの状況で志気を挙げるには自分が行くのが一番だから。
「そうだなぁ。勢いがついてきたら、俺も出る時が来るだろう。ま、心配するな。俺が行くって事は、絶対に負けないって事だからな」
 自信満々でウィンクしてみせる。すると、ひとりの男の子が彼の服を引っ張った。振り向くと、男の子は満面に笑みを見せた。
「俺、絶対に騎士になるんだ! それで、シャナイ様と一緒に戦うんだ!」
 誇らしげな少年の頭を撫でる。
「よし、頑張れよ。そのためには強くて賢くなるんだぜ?」
「僕も、僕も!」
 何人かの少年が次々に手を挙げる。それは喜ばしいことなのかそうでないのか、彼には判断できなかった。すると今度はひとりの気の強そうな少女が大きな声で言う。
「私はね、大きくなったらシャナイ様のお嫁さんになるの!」
 さすがにそれにはびっくりした。シャナイは目を大きく開いて彼女を見た。少し恥ずかしそうに頬を赤く染めている。
「ずるい! 私もシャナイ様のお嫁さんになる!」
 別の少女が頬を膨らませて大声を上げる。すると、少年たちはからかうように指笛を鳴らしたりする。
「まぁまぁ、待てよ。もう少し大人になって、二人がいい女になってたら考えるよ」
 シャナイの言葉に、皆は笑った。そうやって他愛もないことを話していると、誰かが走り込んでくる。従僕のひとりだということは、その身なりでわかった。
「シャナイ様ーッ!!」
 少しばかり恰幅のいいその男は、彼のところまで走ってくると息を切らしていた。
「……何か急用か?」
「ファルト様が、至急お帰りになるようにと……」
 小さな声で耳打ちする。何かあったな。シャナイは直感的に感じた。すると子供たちを見た。どうしたのか、といった目を向けている。
「悪いな、みんな。ファルトお兄様がお怒りだ。『お前は少し仕事をしろ!』って雷落としてるみたいだ。俺は帰るけど、くれぐれも悪戯をするなよ!」
 じゃあな、と言い残して走り去る。従僕も慌ててその後を追った。
 いつも役立たず呼ばわりするファルトが彼を呼びつける。それは滅多にないことだけに、事態はかなり緊迫しているものと思われる。こんな時に何かあったとすれば、それはどこかで敗戦したということしか考えられない。
 子供たちの声はずっと聞こえている。背を向けたまま手だけは振り返し、道を歩いている人たちには会釈をする。颯爽と城に戻り、会議の間に急ぐ。廊下に響く靴の音。時を刻む振り子時計の音にも聞こえた。焦燥感を感じながら、シャナイは会議の間に入る。
「――― 何があった?」
 シャナイは振り向いた一同に真剣な眼差しを向ける。
「……北西部に配置したジュレーン隊がやられた。ゲシュテットの雷導騎士団の勢いを止められない。このままでは数日の内にここも戦場となりかねない」
 やけに冷静な兄の声が響いた。予想通りの言葉だ。
「ジュレーンがやられたとなると、こちらも本隊を出さないわけにはいかないだろ。雷導騎士団は迅速さが売りだったな。ならば持久戦に持ち込むしかない」
 シャナイはテーブルに広げられた地図に目を落とす。西北部は比較的なだらかな丘が続いている。途中に森があるが、足止めになるほどのものではない。最短距離に配置した部隊は全部で五隊。援軍を送るとなると本土から送るしかない。他の位置は敵の第二軍が攻めてくる可能性が高い。
「持久戦でしたら、私が。長弓隊を含めた我が部隊ならば足止めもできましょう」
 一人の将軍が名乗りを上げた。しかし、ファルトは承諾しない。
「貴公だけでは流れは変わらない。例え敵勢力に勝っていたとしても、この勢いを止めるにはそれだけでは心許ない」
 しかし他に適役がいるというわけでもなかった。
(……誰が出ても、そうそう流れは変わらない、ということか。――― 待てよ)
 シャナイは脳裏に一つ、閃くものがあった。先日、ウェンリと書庫に行った時のことを思い出していた。
「雷導騎士団の団長は前線にいるのか?」
 シャナイの言葉に、将軍の一人が応える。
「おそらくは。雷導騎士団団長といえば、前線で指揮を執ることで有名です」
 しばしの静寂。シャナイは目を細めて考えていた。書庫にあったあの本。あれはもしかすると本物かもしれない。
「……ファルト。俺に任せて貰えないか?」
 突然の言葉に、将軍一同は騒然とした。しかしファルトは目を細めるだけであった。
「いけません、シャナイ殿下! あなたが行って解決することではありませんぞ! それに、万一のことがあれば、我々に勝機はなくなる……!」
 アクメイア王国におけるファルトの位置。それは民衆に好かれ、兵士たちには頼りにされる存在。ある意味、国の精神的な大黒柱である。その彼を失えば、志気は一気に下がり、降伏以外の道はなくなるだろう。最強の戦士でありながら戦場に赴かなかったのはそういう理由があったからだ。
「――― 何か秘策でもあるのか?」
 ファルトは珍しく彼の意見を聞く体勢になっている。
「秘策と言うほどのものではない。だが、自信はある」
 シャナイは真っ直ぐに兄の目を見た。何人たりとも曲げられぬ強い意志と自信がある。ファルトにはそれだけで充分だった。
「負けることは認めない。お前の死は国家の死であることを忘れるな。それを理解しているのであれば、お前に任せよう」
「ファ、ファルト殿下!?」
 将軍たちはその言葉に驚いて立ち上がった。しかし、兄王子はそれを制し、目を伏せて呟いた。
「他に方法があるのか? ここで勝たねば、我々は敗者だ。私はシャナイに賭ける」
 誰も何も言い返せなかった。重い空気が流れ、シャナイは踵を返す。
「隊の編成は任せる。出発まで、俺の部屋には近づかないでくれ」
「シャナイ」
 ファルトが彼を呼び止める。彼の足が止まる。顔をそちらに向けると、兄は真剣な面もちで言った。
「……何があっても、死ぬことだけは許さないぞ」
「――― わかった」
 扉を開けると、そう言い残して去る。ファルトの返事は待たない。
 彼がすることは決まっていた。先日、珍しく書庫に行った時に偶然見つけた書物。見るからに怪しげな装飾を施されたその分厚い本には、信じられないことが書かれていた。
 この国が窮地に立たされた時に使われてきた禁断の契約。まさか、と思うような内容ではあったが、歴史と照らし合わせると本当のようだった。
――― 契約により戦鬼となりし者。その者、白き装束纏いて、命喰らう。
 敵国の攻撃により危機に陥った時に現れる英雄たち。彼らは皆、白いマントを羽織っていた。そして最前線に立ち、敵国の兵士たちを薙ぎ倒していった。――― 彼らは間違いなく、この契約を行ったのだ。
(……ならば、今この契約を行うのは俺だ。他に誰がいる? 俺ほどの適役はいないだろう)
 書庫の棚からその本を取り出す。そして、誰にも見られていないことを確認し、自分の部屋に戻った。部屋のカーテンを閉め、ドアには鍵をかける。テーブルの上にその本を置き、目的のページを開く。
――― 禁呪、死との契約。
 躊躇いはない。契約をした者は血を浴び、命を食らい続け、死への門に人々を送り続ける。そして、この契約を行った英雄たちは、最後に自らの命を死に捧げた。……戦争さえ終われば、ただの疫病神だ。もう殺す者はいないのだ。生き続ける代わりに、命を食らわねばならない。
 ……この国と自分の命。どちらが大切か。――― そんなことは、今更問うまでもなかった。
 シャナイにとって、アクメイア王国は帰るべき場所。守るべき場所。愛する者たちの居場所。それを失えば、彼には生きる価値もなくなってしまう。
「……冥府の門よ、開け。我はアクメイア王国第二王子シャナイ。死よ、冥府より来たれ。汝の力を我に。我が右手は命を取り、我が左手は魂を救済す。この血によって、抗えぬ制約を!」
 ナイフを手に取り、指先を切る。溢れ出す血を本の上に落とす。すると、まるでその上に膜が張ってあったかのように紅い雫は紙の上を滑り落ちた。
 そして、本の中から黒い瘴気が立ち昇る。禍々しい黒い霧。しかし、そこには神聖な気配すらも漂っていた。
『我を呼びしは、汝か……?』
 二つの声が重なったように聞こえてくる。
「貴公が死か?」
 シャナイは確かめるように聞く。
『いかにも。汝が我を呼びし者だな』
 死は厳かに呟いた。
「その通りだ。俺はアクメイア王国第二王子、シャナイだ。貴公の力をお借りしたい」
 真剣な眼差しを向ける。死はしばらく沈黙していた。
『――― では、シャナイ。汝、何故我が力を欲するか?』
「アクメイア王国は敵国に攻められ、窮地に貧している。俺はこの国を守りたい。穏やかな、子供たちが笑っていられるような平穏を取り戻したい。それが俺の独断であっても、偽善であっても、俺に戻る道はない」
 シャナイは即座に答えた。それは彼の本音であり、揺るがない意志であった。死は再び沈黙し、強い眼差しの王子と対峙していた。凍えそうな冷気が部屋を満たしていく。
『――― 汝の覚悟、本物と見た。では、最後の質問だ。汝は己の生を捨てられるか? 汝は修羅となることができるか? 汝の敵にも守るべきものがあり、そのために戦っている。その者たちの命を奪うことに躊躇いはないか?』
 重い質問だった。しかし、シャナイの心には一片の曇りもなかった。もう、答えは決まっているのだ。
「国のためなら、この命、いくらでも捨てる。そのためには修羅にもなろう。敵兵士たちも人だ。その事は尊重したい。俺の成すべきことは多くの命の上になり立つものだと言うことだけを心に刻む。故に躊躇いはない」
 そして、三度沈黙。シャナイはゴクリと唾を飲み込んだ。死はゆらゆらと揺れながら、彼の目の前にやってきた。
『――― アクメイア王国の王子、シャナイよ。汝と契約す。我が力、存分に使え。ただし、我との契約は永遠のものぞ。違えることはできぬ。汝は死の使い。いつまでも命を食らう亡者なり!』
 死はそのままシャナイを包み込んだ。瘴気に包まれ、彼は呼吸ができなくなる。体中には何かが蠢くような感覚と共に激痛が走った。声すら発することができない。何かどす黒いものが自分を蝕んでいく。
 ドアをノックする音が聞こえる。鍵はかかっている。開くことはできない。
「……兄さん!? シャナイ兄さん!何 をしていらっしゃるんです!? この瘴気は何ですか!? 返事を、返事をして下さい! 兄さん!!」
 その声はウェンリのものだ。シャナイは喉の奥から声を絞り出す。
「――― ウェンリ、俺にかまうな! それよりも、民衆たちを落ち着かせろっ! 俺が血相変えて走っていったせいで混乱している可能性がある! 早く行け! 何でもないと、皆に説明を!」
「ですがっ、契約の書が……! 兄さん、馬鹿なことをしてないでしょうねっ!?」
 さすがウェンリ。シャナイは苦笑した。何故か、弟にだけはわかってしまう気がしていた。書庫でこの本を見つけた時、ウェンリは黙って彼を見ていた。……その視線は何か願うようにこちらに向けられていた。――― その書に魅入られることのないように。
「馬鹿なことなどしていないっ! だから、民衆に言ってやってくれ! この国が負けることはないと!」
 指先でビキビキという気味の悪い音がする。まるで自分の身体ではないような感覚だ。ウェンリはしばらく黙っていたが、意を決したかのように答えた。
「……わかりました。皆に話をしてきます。私は、シャナイ兄さんを信じていますから……!」
 ウェンリが去っていく。靴音だけがまるで耳元でなっているかのように鮮明に聞こえた。
 シャナイは目を伏せた。今、自分がしていることはウェンリへの裏切りなのかもしれない。しかし、シャナイは自分の立場をよく理解している。王たるものは国を守らねばならない。そして、その王に仕えるものは王の手足となり、国を守るために尽力せねばならない。
 父王が倒れ、動けずにいる今。実質上の国王はファルトだ。そして、ファルトが王であるならば、彼はそれを支えて行かねばならない。だから、国を守るため、兄を支えるため、彼はこの道を選んだ。
(……悔いなどない! 俺は、死と共に生き、朽ち果てる事なき呪われた存在となる!)
 瘴気が止む。心の奥底から、声が聞こえてくる。
――― 汝、我と同化せり。我は汝、汝は我。共に血塗られた修羅の道を行こうぞ。
 死が、そう言って彼を駆り立てる。まだ、完全に同化はしていないようだ。この手はまだ血の味を覚えていない。
――― 汝に一つだけ、守ってもらうことがある。
 死がそう言うと、彼の前に純白のサーコートが現れた。シャナイはそれを手に取る。
――― 戦に出るときはこれを纏え。お前の狩り取った者たちの返り血を浴び、ここにそのものたちの生きた証を背負ってゆけ。お前はそうやって手にかけた者たちの魂を救済するのだ。
 シャナイは静かに頷いた。そして、契約の書に目を落とす。そして、本を閉じるとコートをそこに置き、部屋を出る。……向かう先は執務室。軍事会議は終わっているはずだ。彼の仕えるべき者はそこにいる。執務室の前に辿り着くと、シャナイはドアをノックした。
「……入れ」
 誰か問うこともなく、中にいる者は答えた。シャナイはドアを開け、中に入る。すると彼は、ファルトは弾かれたように顔を上げた。予想だにしなかった人物の登場だったようだ。
「……シャナイ。何かあったのか?」
 シャナイは頷くと、真っ直ぐと兄を見つめ返した。
「――― 俺の血は穢れた。この戦が終わるまでに銀の鎖と枷を四つ用意しくれ。戦が終わり次第、俺を北の塔に枷をはめて幽閉してくれ。戦が終われば俺は疫病神だ」
 ファルトは目を細める。
「……どういうことだ」
 シャナイはふと微笑んだ。
「俺はかつての英雄たちと同じことをした。血に飢えた修羅となったんだよ。戦では大きな戦力となる。しかし、それが終われば荒れ狂う殺人鬼だ。お前、俺に言ったよな? 何があっても死ぬことは許さないってな。だから、俺は自分から死ぬことができない。俺の主はお前だから。俺は死ぬことができない。他人には俺を殺せない。だから、俺を幽閉し、銀の鎖と枷で封印しろ」
 まるで当たり前のことを言うように、シャナイはさらりと言った。兄は信じられないような顔になった。
「……何故だ。何故お前がそんなことを……」
 いつも顔を合わせると喧嘩してきた。ファルトはこの弟とは馬が合わない、手を取り合うことはないと思っていた。シャナイはあるがままに生き、王家とは無縁な生活を望むだろうと、そんな風に考えていた。
「――― 親父はもう長くないだろう。そしたら、次の国王は確実にお前だ。この国を救うということは、ファルトを国王にするっていうことなんだよ」
 わかったか、とシャナイは笑う。その表情を、ファルトはまだ信じられないというように見つめていた。
「俺以外に、誰が修羅になる? 将軍たちにはお前の脇を固めてもらわないとならない。……俺は、国王を支えるために何もできやしない。そして、戦線に立つ俺にならついてくる者たちがいる。だから、俺がこの役に適任。それ以上でも以下でもないさ」
 簡単な理屈だろう。シャナイは飄々とそう言ってみせる。そう、もう何を言ったところで遅いのだ。すべては始まっているのだから。
「……了解した。お前の言う通りにしよう」
 ファルトは悔しそうに顔を歪め、やっとそれだけ言葉にした。するとシャナイは頷いて、この部屋をあとにする。
「……シャナイ」
 呼び止める、兄の声。シャナイは振り返って兄の姿を見た。後悔。そこにはそう書いてあった。
「……すまなかった」
 悔やんでも悔やみきれない。次にここに帰ってきた時が、彼との別れになる。理解し合えなかった弟の心がようやく見えた時。その時が、皮肉にも別れを告げるようなことになってしまった。シャナイはふと笑った。
「馬鹿か、お前。俺は好きでやってるんだ。もうお前と啀み合わなくていいと思うとせいせいするぜ」
 そして、部屋を出ていった。その言葉も、精一杯の強がりであることはファルトにもわかった。この戦争が終結したら。彼は弟を一人失うのだ。――― 確実に。




« back    ⇑ top ⇑    next »